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baseball2021.07.28

阪神タイガースの躍進は、すべてを笑顔で飲み込んだ糸井嘉男の姿勢にある

いまやファンやメディアの関心も、出番も、数年前とは比べ物にならないレベルにまで落ち込んでしまった。本人の意志はともかく、周囲から向けられる眼差しは、確実に引退間際の選手に向けられる、それに変わりつつある。

それでも、糸井嘉男が超人、あるいは怪物であることに変わりはない。

近畿大学からプロ入りした時点で、日本ハムが彼を投手として指名したことはよく知られている。その後、2シーズンを一軍に登録されることのない投手として過ごした糸井は、3年目となる06年、当時の高田繁GMの勧めで野手に転向する。

身体能力の優れた、しかし結果に恵まれていない投手が野手に転向するのは、それほど珍しい例ではない。高田GMが黄金期を過ごした巨人では、監督の川上哲治、主砲の王貞治、斬り込み隊長の柴田勲らが、投手からの転向組だった。

時代が昭和から平成に変わっても、その流れは脈々と息づいていた。2000本安打を達成した石井琢朗や通算360本塁打の村田修一、カープの名二塁手として鳴らした東出輝裕らも、高校時代は名の知られたピッチャーだった。

だが、彼らのほとんどは、高校を卒業すると同時にプロの世界に飛び込んできていた。つまり、早ければ10代のうち、遅くとも20代前半のうちには、コンバートという最大の難事を乗り越えていた。

糸井嘉男は、大卒である。

成功した多くの先達がすでに転向を済ませている年齢のとき、彼は投手を続けていた。25歳になろうかという年齢になって初めて野手に転向し、レギュラーをつかんだのはそれから3年後のことだった。

つまり、彼がプロ野球の野手として第一線に立ったのは、そろそろ30歳の大台が見えようかというときだったのである。

そんな選手が、日本プロ野球史上初となる「6年連続3割・20盗塁・ゴールデングラブ賞受賞」をなし遂げ、WBCの日本代表にも選ばれた。16年のオフ、4年18億円以上とも言われる条件で阪神へのFA移籍を決めたのはご存じの通りである。投手失格の烙印を抑えた時点での年俸は770万円だったというから、目が眩むほどの大逆転人生と言っていい。

だが、阪神に移籍してからは、超人と言われた鋼のような肉体に、少しずつヒビが入ってしまった感がある。

移籍1年目の自主トレ期間中に右膝に関節炎を再発させ、何とか戦線に復帰した7月には空振りの際に右脇腹の筋座傷を起こしてしまう。それでも、シーズンが終われば打率2割9分0厘で打撃ベスト10に入り、本塁打は自己2位の17本、盗塁はリーグ4位タイの21個と、まずまずの数字を残したのはさすがというしかない。

ただ、移籍3年目となる19年になると、身体の異変はついに隠しきれないものになった。

それがもっともわかりやすい形で現れたのは、盗塁だった。

08年に13個の盗塁を決めて以来、糸井は11年連続で2ケタの盗塁を記録してきた。ところが、19年に入ると盗塁数は「5」にまで激減し、翌20年にはさらに「2」にまで減った。

20年7月2日の中日戦で決めたのを最後に、以来、彼はほぼ1年近く盗塁から遠ざかっている。通算の盗塁数は21年6月24日現在で「299」。おそらく、球団側は記念のプレートなどを用意し続けているはずだが、日の目を見るのはいつなのか、そもそも、日の目を見る日があるのか不安になってしまうぐらい、超人の健脚ぶりは影をひそめてしまっている。

本人の弱音めいたコメントが一切聞こえてこないため、あくまで推測でしかないのだが、おそらく糸井の肉体は、特に下半身の状態がプロとしてやっていけるかどうか、ギリギリのところまで悪化しているのだろう。人工芝に比べると下半身への負担がはるかに少ない甲子園という球場を主戦場にしながらの盗塁数激減は、やはり尋常ではない。

ただ、ベストでは間違いなくないコンディションでありながら、かつ、近畿大学の後輩でもある佐藤輝明という超大物ルーキーにポジションを明け渡しながら、それでも負のオーラをまったく放つことなく出番を待つ糸井の姿には、ただただ感服する。

彼は、身体の痛みと心の痛み、その両方と向き合いながら、明るくもがいている。

もし、万が一、糸井がストレスフルな現状に不満を隠さなかったとしたら、たとえば、佐藤はこんなにも伸び伸びとプレーできたかどうか。

ドラフトの際、近畿大学の田中秀昌監督は、佐藤の内野での起用を希望していたと聞く。右翼での起用となれば、大学の先輩である糸井との競争が派生してしまう。それを避けたかったのだろう。

だが、矢野監督は佐藤を右翼で起用した。しかし、懸念された衝突や不協和音は一切起こっていないようだ。もちろん、阪神首脳陣の気配りや佐藤自身の人柄もあったのだろうが、最大の要因は、すべてを笑顔で飲み込んだ糸井の姿勢にあるとわたしは思う。



人の本質は苦境にあってこそ表れる、という。

誰の目にも明らかなほどの異変を抱えながら、誰からも腫れ物に触れるような扱いをされていない糸井を、わたしは、心底尊敬する。そして、「299」で止まったままの盗塁数が大台に乗るとき、その盗塁が糸井だけでなく、チームにとっても大きな意味を持つものになることを祈る。

それが、優勝を決める試合であれば、言うことはない──阪神ファンとしては。

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