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baseball2021.05.05

中田翔が放つ、特別なオーラ。古き良き昭和の大物感。

『田中将大をもってしても、ソフトバンクは抑えられなかったという結果が出れば、日本を見るアメリカの目が変わる。すべてにおいてアメリカにはかなわないと思い込んでしまっている日本人の考えも変わる』

このコラムでそう書いたのは、2カ月前のことになる。マー君が日本に帰って来てくれたのは素晴らしいこと、エポックメイキングなことだけれど、より大きな歴史の分岐点とするためには、日本の打者がメジャーの打者以上にマー君を打つこと──願いを込めてそう書いた。

やっぱ無理かも。

4月17日になった彼の日本球界復帰初戦、日本ハムの先頭打者、西川遥輝を高めの速球で三振に斬ってとるのを見た瞬間、そう思った。表示された球速は148キロ。標準的、とまではいかないものの、いまや日本球界でも当たり前のように見ることのできる数字である。

ただ、何となく、でも、ずいぶんと違うように見えた。速球にしろスライダーにしろ、すべてが骨太というか、“キュッ”ではなく“グイッ”なのだ。バットの軌道を上手く合わせただけでは弾き飛ばされそうな、つまり打つためにはボールに負けないぐらいの剛力が求められそうで、果たしてそれだけのバッターが日本にどれだけいるものなのか。やっぱりマー君の連勝記録はこれからもどんどん続いていってしまうのではないか──。

そんなことを思ってしまった。

なので驚き、笑った。

中田翔、いきなりズドン、なんだから。


正直、東京ドームでなければスタンドに届いていたか微妙な打球だったとは思う。ただ、そうはいってもマー君の高めの速球をバッチーンとしばきあげての一撃は、見事というしかない。というか、あなた、それをここでやりますか、と突っ込みたくなった。

この打席まで、中田翔の本塁打はゼロだった。打率は1割台だった。

そんなバッターが、マー君から打つ。絶不調に喘いでいた男が、メジャー帰りの超大物を一振りで仕留める。

持っている、としか言いようがない。

思い返してみれば、「持っている」なる単純かつ多用途な動詞がスポーツ界において特別な意味を持つようになったのは、第2回のWBCからだった。

大会を通じて終始ブレーキの続いていたイチローが、最後の最後、決勝の韓国戦で4安打と大爆発した。試合後、彼が興奮の中で口にした「ぼくって持ってますね」とのコメントにより、スポーツにおけるこの動詞は、「強運を」とか「ツキを」といった名詞を伴わずとも意味が通じるようになった。

ただ、「持っている」という表現が使われるのは、あるいは許されるのは、一流の中の一流というか、選手からも一目置かれるような特別な存在でなくてはならない。

はて、中田翔はそういう存在だろうか。

一流選手であることは間違いない。生涯本塁打の数も、おそらくは300本台には突入するだろう。イチロー同様、WBCにも出場しているし、これまでに3度、打点王のタイトルも獲得している。

とはいえ、イチローが残してきた実績に比べるとずいぶんと見劣りするのも事実である。

にもかかわらず、マー君の速球を東京ドームの左中間に放り込んだ瞬間、わたしは「持ってるなあ」と感じ、そのことをまるで不思議に思わなかった。

オーラ、のせいかな。

会ったことはない。ただ、画面を通じて見る中田翔の姿に、わたしは特別なオーラを感じてきた。日本のプロ野球ではすっかり、というか圧倒的少数派になりつつある、古き良き昭和の大物感。勉強はいま一つだけど、運動神経は抜群で、ドッジボールや野球をやらせたら王様状態。アスリートとして野球を追求してきたというより、自分自身が王様で、野球が日本の子供たちにとってスポーツの王様だからやってきた、というタイプ。

喝の張本勲さんとか、番長・清原和博さんとか、その系譜。

メジャーがなんぼのもんじゃい、と燃え上がってしまうタイプ。一般社会ではひょっとしたらはみ出しちゃうぐらい我が強くて、肩で風切って道行くタイプ。

好き、というか、どうしようもなく惹かれてしまう。『仁義なき戦い』の菅原文太さんに憧れたのと同じ感じで。

実際、取材したことのある記者に聞くと、中田翔というオトコ、実に昔気質というか、尊敬する先輩には礼を尽くし、可愛がっている後輩の面倒はとことん見てやるのだという。その様は、未だ色濃く縦社会の空気が残るプロ野球の世界においても、少しばかり際立っているのだとか。

この先、日本でプロ野球がなくなることはないだろうが、広場の遊びの延長線上に高校野球やプロ野球があった時代は、現時点ですでに終焉の時を迎えている。野球は遊びではなく、習い事、お稽古事として始める時代になった。個人的な印象から言わせてもらうと、昔であれば間違いなく野球をやっていたであろうヤンチャな層の何割かは、いまは総合格闘技系の世界に流れている気がする。

中田翔のようなタイプの選手が出てくる可能性は、どんどんと小さくなっていく。

これはまったく個人的な思い込みなのだが、いわゆる昔気質な選手の多くは、指揮官、親分に心酔することによってより大きな力を発揮してきた気がする。圧倒的な熱量があって、お前ら好き勝手やってこい、責任は全部俺がとってやるから──みたいなタイプ。

仰木彬さんとか、星野仙一さんとか。

だとしたら、一度でいいから、そういうタイプの監督の下でプレーする中田翔を見てみたかった。日本ハムに入団した時の梨田昌孝さんと現在の栗山巧監督は、どちらも知性的な印象があるけれど、中田翔が惚れるタイプではない気がするのだ。

問題は、いま、そういう熱血監督が日本球界にいるか、ということなのだけれど。

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