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football2022.04.13

稲本潤一が日本サッカー界に新たな息吹を与えた「攻撃型ボランチ」の時代背景

今となってはいささか信じられない気もするが、わたしがサッカー専門誌に務めていた80年代後半から90年代半ばにかけて、関西はサッカー不毛の地だった。

どれほど不毛の地だったかというと、高校サッカー担当になったわたしが近畿大会の取材に行くためには、自腹を切る必要があった。関東大会、東海大会、ついでに言うと九州大会の取材は会社から経費を出してもらえる。だが、近畿はダメ。自腹。仕方がないので交通費、宿泊費を少しでも減らすべく、いまはなき寝台急行『銀河』で西を目指したのが懐かしい。

なぜ、より経費のかかる九州はOKで関西はダメだったのか。理由は簡単。弱いから、だった。もっと言うなら、弱いだけでなく、面白そうな選手が他の地域に比べて少なかったから、だった。

関東には帝京がいて武南がいて市立船橋や習志野がいて、九州には国見がいて鹿実がいた。東海大会にいたっては、岐阜を除くすべての代表校が選手権でも優勝候補にあげられるのが常だった。清水商、清水東、東海大一、中京、四日市中央工……。

だが、関西にはそういった学校がなかった。しかも、やっているサッカーが気合と根性を前面に押し出したキックアンド・ラッシュな学校が多く、将来が期待されそうな選手もほとんど見当たらないのが常だった。費用対効果の点から考えて、会社が経費を出してくれなかったのも無理はない。日本にまだプロはなく、サッカー専門誌はどこも青息吐息でやっと続けているという時代だった。

もっとも、関西に有望な選手がいなかった、というわけではない。いることはいた。ただ、そうした選手の多くは、ドッカンドッカン蹴るばかりのサッカーを嫌い、域外の学校を進路として選ぶことが多かった。淡路島出身ながら清水商に進み、プロとしても活躍した興津大三などはその典型的な例といえる。



だから、稲本潤一の出現は、ある意味エポックメイキングな出来事と言えた。

初めて彼のプレーを現場で見たのは、98年、タイのチェンマイで行なわれたアジア・ユースの時だったと思う。

開催国タイの試合を除くと、どこのスタンドもほぼ無人というか、いたって牧歌的な雰囲気の中で行なわれた大会だった。スタンドにははるばる大阪から乗り込んできたと思われる熱心なサポーターの方が掲げた横断幕があった。「ナニワの」という文字がくっついていたかもしれないし、なかったかもしれない。印象に残っているのは、漢字2文字だ。

『帝王・稲本潤一』

凄いキャッチフレーズだな、とまず思った。当時、稲本はまだ19歳。10代の帝王。エンペラー。暴走族かよ……と笑いをこらえたのは、試合が始まるまでの話だった。すぐに納得し、試合が終わるころには感嘆していた。これ以上この選手を的確に表現した言葉はないな、とまで思った。

確かにあのときの彼は、フィールド全体を仕切っていた。俯瞰し、コントロールし、君臨していた。

ガンバのユースに相当な逸材がいるという話は、トップチームの選手やスタッフから聞いたことがあった。ただ、これほどまでとは思わなかった。

純粋に持って生まれたボールタッチの才はラストパスを通すセンスだけを比較するならば、稲本よりも上かもしれない選手はいた。同じ世代でいえば、小野伸二がそうだ。

だが、小野は静岡の出身で、ポジションは典型的な10番だった。毎年のように高校サッカーのスターを量産していた静岡が産み出した、最高の才能。その出現自体に、驚きはなかった。



稲本は違った。釜本邦茂以降、枯れたと見られがちだった関西の土壌が産み出した、まったく新しい才能だった。

94年のパウロ・ロベルト・ファルカンが代表監督に就任して以来、日本のサッカーではそれまで使われていなかったポルトガル語、厳密にいえばブラジルのポルトガル語が爆発的に認知されるようになった。クルマのハンドルを意味する「ボランチ」という単語は、それまで「守備的MF」という言葉で表現されていたポジションのイメージを劇的に変えた。

ただ、実際にそのポジションを務める日本人選手はといえば、昔ながらの守備的MFがほとんどだった。はっきり言ってしまえば、10番や7番をつけるほどにはパスやドリブルのセンスに欠ける、ちょっと地味な選手。いまは日本代表監督を務める森保一などは、その象徴とも言えた。

ところが、ガンバのサポーターが「帝王」と名付けた稲本のプレースタイルは、ファルカンやブラジル人がイメージする「ボランチ」そのものだった。チェンマイの荒れたピッチをものともせずにチームをコントロールする稲本の姿は、ワールドカップ初出場を果たしたばかりの日本サッカーが、どうやら完全なる未知の世界に足を踏み入れつつあるのではと感じさせてくれた。

実際、彼の出現が日本にもたらした変化は大きかった。

まず、関西の少年たちの意識が変わった。東海はもちろん、関東や九州に対しても隠しきれなかったコンプレックスが消え、当たり前のように日本代表や海外を目指すようになった。結果、いまやJリーグはもちろんのこと、日本代表にとっても関西出身の選手は絶対に欠かせない存在となっている。



もちろん、稲本一人が促した変化ではないのだろうが、稲本がいなければ起き得なかった変化だともわたしは思っている。

『キャプテン翼』の影響もあってか依然として背番号10への郷愁が強く残っていた日本サッカー界に、ボランチというポジションの具体的なイメージを広げた功績に関しては、文句のつけようがない。背番号10になれなかった選手、センターバックにしてはちょっと上手い選手が当てはめられることの多かったポジションは、稲本の出現によってチーム作りの核と認識されるようになった。

稲本以降、日本代表はボランチの人材不足に悩まされたことはない。

稲本以前の日本代表を思えば、ただただ驚くしかない。

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