三笘薫、怪我を乗り越えて欧州で輝くアジアサッカーの頂点への挑戦
ケガをしたいと考えてプレーしている選手などいない。誰もができる限りケガを避けるべく努力をし、体調を管理し、人によっては神頼みまでする。
それでもケガをする選手は現れる。時には、ケガによって選手生命を絶たれる者まで現れる。あまり考えたくないがケガをさせて選手生命をたってやろう、と考える選手までいるのかもしれない。
40年ほど前、アスレティック・ビルバオにアンドニ・ゴイコエチェアという選手がいた。後にスペインの五輪代表監督を務めることにもなる男は、マラドーナの足をへし折った男としても知られている。彼は、バルセロナとの対決を前に「足をへし折ってやる」と宣言し、本当にやってのけた。
21世紀の若いファンは、これを「昔の話だから」で片づけてしまうかもしれない。だが、残念ながらフットボールは依然として善なるものだけの世界ではない。66年のW杯では試合中の度重なる悪質なタックルによってペレが病院送りにされ、14年のブラジルW杯ではネイマールが腰椎の骨折という重傷を負わされた。
サッカーの世界には、テクニシャンを担架に乗せることに何のためらいも持たない選手が存在する。
三笘薫は、だから、常に危険にさらされている。
ただ、これは言うまでもないことだが、フットボールの世界にいるのはこのような人だけ、ではない。
東京五輪の時がそうだった。カタールW杯の時もそうだった。チームのエース、あるいは切り札として期待されながら、フル出場が難しい状態に三笘はあった。まだ記憶に新しいアジアカップの際は、フル出場どころか、出場すること自体が不安視されていた。
つまり、彼は非常にケガの多い選手でもある。
振り返ってみれば、10代から20代中盤にかけてのメッシも、非常にケガの多い選手だった。その才能は誰もが認めるところでありながら、バルセロナでのキャリア前半は1シーズンをフルに戦った経験がほとんどなく、口の悪いバルセロニスタからは“ガラスの天才”と揶揄されたこともある。
だが、08-09シーズンにリーグ戦、カップ戦を合わせて51試合に出場してからは、以後10年以上、ほとんどの期間をチームの主力として君臨し続けた。メッシ=ケガというイメージは、完全に払拭されたといっていい。
では、なぜメッシはケガを減らしたのか。あるいは、ケガをしてでも欠場に追い込まれることが少なくなったのか。
理由はもちろん、一つではあるまい。若いころに比べ、筋肉の鎧が厚みを増したのは間違いない。マラドーナがそうだったように、分厚くなった体幹がケガを減らしたという側面はありそうだ。
プレーの質が変わったという点も見逃せない。
若いころのメッシといえば、まず連想させられるのは「速さ」だった。常識では考えられないスピードで守備網を切り裂き、突進していく。あるいは、平均的な選手が1秒間のうちにできることが「3」だとしたら、一人だけ「6」のことを消化し、実行することができる。肉体的な速さと、頭の回転の速さ。昔のマンガでいうと『サイボーグ009』のジェット・リンクか、島村ジョー。一人だけ、加速装置を装備して戦っているような印象もあった。
だが、高速でのプレーは、相手守備陣からすれば破壊的な存在であると同時に、うまくいかなかった際、たとえば反則で阻まれたりした場合、メッシ自身にも大きなダメージをもたらすことになる。
いつごろからだったのか、メッシは加速装置の使用に制限をかけるようになった。少なくとも、カタールW杯でのメッシは、中盤から高速ドリブルで相手をぶっちぎっていく、といったプレーをほとんどやらなくなっていた。日本人に比べると成熟の早い欧米人の場合、衰えが来るのもまた早い。メッシが望んだわけではなく、肉体の衰えが以前のようなスピードを失わせた、と見ることもできるが、何にせよ、超高速域でのプレーが減ったことで、メッシのケガは確実に減った。
プレーの変化という点でもう一つ挙げられるのは、右足を使ったプレーが増えたことだろうか。マラドーナや彼が憧れたというリベリーノ、そしてマラドーナに憧れた中村俊輔がそうだったように、左利きの天才肌は、その生涯を最後まで左足1本で切り開いていく傾向が強いが、メッシは年齢を重ねるに連れて右足の精度をあげていった。
左足しか使えないメッシと、要所要所で右足を散りばめてくるメッシ。対峙する側からすれば、どちらの方が面倒な相手であるかはいうまでもない。通常、DFが悪意をもって相手を倒しにいく場合、軸足に狙いを定めることが多いが、両足を使われてしまうと、ターゲットが絞りづらくなってしまうからだ。
三笘の場合、両足をバランスよく使うタイプなだけに、メッシの変化がどれだけ参考になるかと言われると、言葉に詰まってしまうところもある。ただ、過去に挑んだ大舞台がおしなべてベストコンディションとは言えなかった以上、これまでの「当たり前」をそのままにしておいていいものなのか、考える必要があるかもしれない。
26歳という年齢は、世界のサッカー界においてはもはや若手ではない。だが、大学を卒業してからプロの世界に飛び込んだ三笘は、考えようによってはようやくプロ5年目を迎えたばかり、と見ることもできる。10代後半で肉体的にも精神的にも完熟期を迎える人が多い欧米に比べると、よくも悪くも青年期の幼さが許されがちな日本人の場合、成長曲線のピークはまた少し違ったものになる。
世界のサッカーの常識からすれば、20代後半に大きなケガをするということは、行けていたはずのレベルに行けなくなったこととほぼ等しい。その選手が普段からケガの多いタイプであれば、可能性に見切りをつけられることも多々ある。
だが、三笘薫は日本人である。欧米の常識は、必ずしも彼には当てはまらない。
ヘネス・バイスバイラーに見出された奥寺康彦が1.FCケルンに渡って以来、多くの日本人、アジア人がヨーロッパの舞台に挑戦してきた。あくまで個人的な考えだが、その中から3大成功者を選べと言われれば、わたしはチャ・ブングン、中田英寿、ソン・フンミンを選ぶ。さらに、その中からナンバーワンを、と言われれば、やはりソン・フンミンか。
三笘には、この3人の間に割って入る可能性がある。ナンバーワンになる可能性も、もちろんある。
今シーズンをケガなく乗り切っていれば、その可能性はより高いものになっていただろう。だが、ケガは起きてしまった。史上最高のアジア人選手と呼ばれる日は、残念ながら少し、遠ざかってしまった。
とはいえ、道が閉ざされたわけではない。
ケガなく1シーズンをフルに活躍する──それを今後、何年も続けて行ければ。
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