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football2020.10.07

内田篤人には選手としてだけではなく、人間としても備えていた武器があった。

内田篤人の引退を機に発売された雑誌Numberの増刊号の初版が、めでたく完売になったと聞いた。

このご時世、紙媒体の衰弱ぶりはあちこちで言われている通りで、スポーツ新聞から雑誌にいたるまで、例外なく部数を大幅に減らしている。そんな中での完売だから、これはもう、結構な快挙と言っていい。

理由はもちろん、内田篤人の人気にある。

現役時代、特に独身時代の内田篤人は、日本代表の中でもっとも、それもズバ抜けて女性からの人気が高い選手だった。サイドバックという、フィールドプレーヤーの中ではどちらかというと地味なポジションにありながら、あれだけ注目された選手というのをわたしは知らない。

ただ、外見的な要素を取っ払って考えた場合、わたしにとっての内田篤人はちょっと不思議な存在だった。

サッカー選手としての特別な武器が、彼から感じられなかったからである。

Jリーグでプレーしている分には、何の問題もない。だが、海外のクラブから声がかかるような選手、そして海を渡ってからも活躍できる選手のほとんどは、自他ともに認める武器をもっていた。

中田英寿であれば、それは体幹の強さだったし、中村俊輔や本田圭佑であれば、精度の高い左足だろう。明治大学の応援席で太鼓を叩いていた長友佑都が長く活躍できているのは、体力、走力という絶対的な武器があるからでもある。

余談になるが、いまはサンフレッチェ広島で監督をしている城福浩がFC東京で若年層の指導を統括していたころ、若手選手たちに自分の選手としての特徴をチャート図にして提出させたことがあった。

技術、戦術眼、体力、視野……いろいろな要素がある中、ほとんどの選手は10点満点で7点か8点のところに線を引いた、バランスの取れた円の図を提出してきた。そんな中、ほとんどの項目に低い点をつけながら、体力のところだけ10点を超える、極めて歪な図を出してきた選手がいた。

それが、明治大学から練習生として参加していた長友だったというのだ。

サッカーの世界では、いや、これはサッカーの世界に限ったことではないが、「これだったら自分は負けない」という武器を持つ者は強い。逆にいえば、武器を持たない者に海外のクラブが目をつけることはほとんどない。

内田篤人の武器が、わたしは見つけられなかった。

静岡の名門、清水東で背番号10を背負ったこともあるのだから、非凡な存在だったことは間違いない。ただ、多くの才能を目にしてきた静岡の指導者たちに話を聞くと、内田の非凡さはあくまでもその年の中においてであり、静岡が輩出してきた過去の偉大な才能に比べると、いささか見劣りするという声がほとんどだった。

「よくアントラーズが獲得したよな」──そんなことをいう方すらいた。

だが、アントラーズに入団してから内田が描いた上昇線は、大方の予想を大幅に裏切るものとなった。

いきなりルーキーイヤーから、それも開幕戦からスタメンで出場し、第4節にはクラブ史上最年少にして、当時のJリーグの高卒ルーキー最年少得点記録に名を刻む。翌年にはチームのレジェンドでもあった名良橋晃から背番号2を引き継ぎ、日本代表に名を連ねるまでになった。

そして、ついにはブンデスリーガの名門、シャルケ04の青いユニフォームに袖を通す。

白状すると、この移籍、わたしは失敗に終わる可能性が高いと見ていた。Jリーグや日本代表でプレーするならいざ知らず、海外の名門でプレーするとなると、今度こそ突出した何かが求められると思ったからだ。

それが、助っ人という存在の宿命だから。

野球にしたって、外国から選手を獲るとなれば、自国の選手にはない何かを求める。それは長打力なのかもしれないし、剛速球かもしれない。バランスは取れているけれど、特別なもののない選手に、ファンは、チームは、魅力を感じるだろうか。

だが、予想は完全に覆された。わたしの目には特徴がない、と見えた内田を、シャルケのスタッフは、あるいはドイツのメディアは、弱点がないととらえた。

強いて言うならば、クロスの精度の低さを指摘する声はあったが、内田はすぐに修正した。ポジションがサイドバックだったということで、中央部のディフェンスよりは馬力、高さを要求されなかったのも大きかった。日本人ならではの俊敏性と、日本人の中でも傑出した修正能力を持つ内田は、シャルケにとって欠かせない選手となった。

選手としてだけではなく、人間としても。

忘れられないのは、あの東日本大震災が起きたとき、日本にメッセージを送ろうとした内田を、のちに世界的GKとして名を馳せることになるノイヤーを始め、多くのシャルケの選手、ゲルゼンキルヘンのファンが後押ししたことである。

すでに多くの日本人選手がヨーロッパでプレーする時代でもあり、多くの国で、多くのチームが日本への支援を訴えてくれた。それでも、シャルケぐらい、日本への親近感を露呈したチームはなかった。

媒介したのは、内田篤人という存在だった。

いまは日本サッカー協会から「ロールモデルコーチ」という肩書を持つ内田だが、今後の道はまだ定まっていないという。ただ、どんな道に進もうとも、所属したすべてのチームで愛され、つながりを広げた経験は、大きな助けとなるはずである。

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