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football2021.03.09

本田圭佑が放つ“オーラ”は一体どんな物語を紡ごうとしているのか。

生まれて初めてオーラに圧倒されるという経験をしたのは、思うに、Jリーグの開幕にあたってガンバ大阪の担当となり、釜本監督に挨拶をしにいったときだった。

な、なんだ、このヒトは……。

サッカー専門誌を出している出版社に就職して4年、それなりの経験は積んだつもりになっていた時期だった。テニスの専門誌時代は世界ランク1位の選手を取材させてもらったことがあったし、サッカーの編集部に移ってからは、日本代表の加藤久さんやジョージ与那城さん、ブラジル代表だったオスカールやリベリーノに話を聞いたこともある。もちろん緊張はしたし、著名人ならではのオーラは感じたものの、だからといって自分がどうこうなってしまうということはなかった。

ところが、釜本さんの放つオーラはまるで別物だった。

学生時代、とことん学校の先生という人種との相性が悪かったこともあって、わたしは基本的に、偉い人と聞けば噛みつきたくなってしまうし、偉そうにしている人となれば間違いなく噛みついてしまう性分だった。メキシコ五輪の銅メダルがなんぼのもんじゃい、というのが、挨拶に伺うにあたってのわたしの本心だった。

ギロリ──一瞥されただけで、我がささやかな反骨心は吹っ飛ばされていた。そこからはもうしどろもどろ。自分がどんな挨拶をしたのかはまるで覚えていないし、記憶に残っているのは、しばらくたって、汗がドッと吹き出してきたこと。

Jリーグが開幕し、週に2回のペースで顔を合わせるようになっても、緊張は収まらなかった。勇気を振り絞って質問をぶつけていくうち、釜本さんの方から声をかけていただく機会も増えていったが、白状すれば、そのたびにこちらの足は震えていた。

Jリーグ開幕から2年目のシーズンが終わると、釜本監督は事実上の更迭という形でチームを去った。その1年後にはわたしもスペインに留学したため、お会いする機会はしばらく絶えた。久しぶりにお目にかかったのは、確か、フランスW杯が終わってしばらくした時期だったと思う。

驚いた。

ガンバを辞めた釜本さんは、その後、国会議員に転身した──ということは知っていたのだが、目の前にいる釜本さんは、わたしの知っている釜本さんとは別人だった。

オーラが皆無だったのだ。

サッカー界にいる限り、釜本さんは常に伝説的な存在だった。誰もが別格扱いし、誰もがその名前と顔を知っていた。日本サッカー協会の会長やJリーグのチェアマンでさえ、釜本さんの知名度や存在感にはかなわなかった。

だが、政治家に転じた釜本さんは、1年生議員でしかなかった。おそらく、サッカー界では考えられないような、仕事もあったのだろう。久しぶりにお会いした釜本さんは、にこやかで腰の低い……といえば聞こえはいいが、はっきり言えば、なんのオーラも存在感もないオッサンになってしまっていた。

数年後、議員を辞した釜本さんは再びサッカー界に重点を移すことになる。議員ではなくなった釜本さんを取材してみて驚いたのは、一度は完全に消えたかと思われたオーラが、また少しずつ復活していたことだった。

さて、本題に入ろう。

初めて本田圭佑にロングインタビューをしたのは、北京五輪の翌年だったから、07年の夏ということになる。

オランダ2部リーグでのシーズンを終えて帰国したばかりだった彼は、実に情熱的だった。北京での屈辱やオランダでの生活、今後の夢など、それこそ溢れんばかり、といった風情で言葉を重ねてくれた。

ただ、オーラは感じなかった。初めて会った時の中田英寿がそうだったように、実績と自信を手にする以前の本田圭佑は、個性的でありたいという自己主張が微笑ましい、ごく普通の青年でしかなかった。

その6年後、ユニクロが本田圭佑と契約したので、そのCM撮影用にインタビューをしてくれないか、という依頼が入った。嘘か誠か、本田本人からのご指名だという。場所は横浜にある小学校の教室。面白い、喜び勇んで会場に向かった。

で、度肝を抜かれた。いや、ある程度は予想していたのだが、「お久しぶりです」と笑顔で現れた本田圭佑は、6年前とは比べ物にならないぐらい、それこそ全盛期の釜本さんやキング・カズ、中田英寿にも負けないぐらいのオーラをビンビンに放っていた。

もちろん、こちらも6年前よりは経験を積んでいるという自負はある。なので、ガンバ時代に釜本さんと話をしていた時ほどには狼狽していなかった……はずだが、ただ、6年前のように親しげに言葉を交わす、というわけにはいかなかった。それが悔しいやら情けないやらで、CMが公開されてからは、「あ、ユニクロのCMだ」と思った瞬間にチャンネルを変えたくなってしまう自分がいた。

オーラとは、結局のところ、自分の内面に自信が満ちあふれ、周囲との折り合いも最高に上手くいっている時期に最高の輝きを発するもの──わたしはそう思っている。持って生まれたものではなく、後天的に自分が獲得していくもの、でもある、と。そして、必ずしもそれは永続的なものでなく、また、一度消えたように見えても、また復活することがある。

横浜の小学校に姿を表した本田圭佑は、思えば、サッカー人生の絶頂にあった。すべての行動が、判断基準が、サッカー選手として、あるいは人間としての自分をいかにして高めていくか、というところに置かれていた感もある。

21年の本田圭佑はどうだろうか。

現役選手としての最後の挑戦を東京五輪出場と宣言し、ブラジルのボタフォゴを去った。その後ポルトガルでの入団会見をしたがリーグの規定でまさかの契約破談になっている。果たしてどんな現役生活を描いているのか。本田圭佑は、前回のロシアW杯でも苦境や逆風の度に記憶に残るゴール、アシストで日本国民を狂乱の渦に巻き込んだ。

だからこそ、期待している。いま、彼のオーラはどんな感じなのだろう。

そして、どんな物語を紡ごうとしているのか。

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