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football2021.05.28

長友佑都が切り拓いた、日本人ディフェンダー世界への道

サンフレッチェ広島の監督を務める城福浩には、長友佑都の名前を見聞きするたびに思い出すことがある。

それは、彼がFC東京の強化部で働いていたときのことだった。トップチームへの入団を希望する若い選手たちに、城福はアンケートのようなものを手渡した。

簡単に言ってしまえ ばチャート図。スピード、技術、戦術眼......サッカー選手が求められる様々な要素が、自分 にはどの程度備わっているかを自己評価させようというものだった。

城福が予想した通り、ほとんどの選手はバランスの取れたチャート図を提出してきた。ただし、すべての様子が 10点満点の大きな円、ということではなく、平均で7点から8点の 少々小ぶりな円だった。

ただ一人、突出して歪なチャート図を提出してきたのが、長友佑都だった。

「体力。ここだけ、10 点満点で 12 点ぐらいのところに線を引いてるんですよ。ほかの項目 は、平均よりはるかに下のところにつけてたので、円というよりは、もう矢印でした」

東福岡高から明治大学へと進んだ長友の経歴は、Jリーグが発足する以前であればなかなかのエリート・コースといえる。だが、日本代表がW杯に出場するのも、日本人選手がヨーロッパでプレーするのも当たり前になりつつあった00年代、大学進学を“将来が期待されないこと”と同一視する見方は確実にあった。

なにしろ、長友以前に大学サッカー部を経て海外へ移籍した日本人選手は、藤田俊哉、名波浩、遠藤雅大の3人しかいなかったのだ。

しかも、藤田にしても遠藤にしても、高校卒業時にはまだJリーグが誕生していなかった世代であり、93 年のプロ化以降、大学への進学を選ぶ有望選手は激減といってもいい状態になっていた。中には、福岡大学のように、大学からの海外移籍という道を明確に打ち出しつつある学校もないわけではなかったが、圧倒的な少数派であったことは間違いない。

実際、技術面だけに目を向ければ、長友佑都はほとんど見るべきところのない選手だった。 高校サッカー界の超強豪として知られる東福岡の出身とはいえ、彼は福岡県選抜に選ばれたこともなければ、スポーツ推薦で進学したわけでもなかった。

だが、たった1点だけでも絶対的に自信のある部分を持つ明治大学の3年生に、城福は強く惹かれた。獲得に反対する意見もあったが、彼は、長友を強く推した。

正しかったのは、城福だった。

ただ、その城福にしても、長友がここまでの選手になるとは想定外だったのではないか。 あまりにも多くのことを、長友は変えた。長友を機に変わったことも数多ある。

真っ先に挙げたいのは、日本人ディフェンダーに対する目を変えた、ということだろう。 中田英寿がペルージャに移籍して以来、多くの日本人選手がイタリアへ渡ったが、そのほとんどは中盤から前の選手だった。つまり、期待されていたのは日本人の俊敏性だった。

一方で、イタリアは世界でも有数の守備を重視する国でもある。日本であれば相当な目利きでも気付かないような小さなミスも、イタリアでは徹底的に糾弾される。そんな国のメディアやファンからすると、06年のドイツW杯で守備陣が崩壊してしまった国 の選手に愛するクラブの守備を任せるなど、およそ許されることではない。

だが、長友はあっさりとそうした偏見を乗り越えた。13-14シーズンにはセリエAの最 優秀左サイドバックにも選ばれた。中田英寿がセリエAでプレーする道を開いた日本人だとするならば、長友は日本人のディフェンダーにセリエAへの道を開いた開拓者だった。

そして、彼は日本のサッカーをも変えた。

『キャプテン翼』の大ヒットによって多少の変化があったとはいえ、日本のサッカー少年に とってゴールキーパーというポジシションは野球でいうところの“ライパチ”のようなものだった。ライトで8番。要は、一番の下手くそが埋めるポジション。では、ゴールキーパーの次に不人気というか、軽視されているポジションはといえば、おそらくはサイドバックだ った。

それゆえ、日本代表においてもサイドバック、特に左サイドバックは長年の泣きどころで あり続けてきた。都並敏史さんが負傷した穴を最後まで埋められなかった“ドーハの悲劇”などは、その象徴例と言っていい。目指す選手が少ないから、いい選手も少ない──それが、 かつての日本サッカー界の実情だった。

だが、「サイドバックがいない!」という現場の悲鳴が聞こえることは、もはやない。日本代表はもちろんのこと、J2、J3レベルであっても、しっかりとした両サイドバックを揃えているチームが増えた。もちろん、理由は他にもあるのだろうが、わたし個人としては、 長友佑都の台頭が大きな意味を持っていた、と見ている。

「体幹」という概念を多くの人が知るようになったのも、長友の功績が大きい。彼が活躍し、外国人に当たり前しないためのトレーニングとして「体幹」を重視していると明らかにしたことで、多くのサッカー選手が、当たり負けしていた理由が「国籍」や「体格」ではなく、単に自分のトレーニング不足だったと気付くことができた。

成功者が世の中に大きな影響を与えるのはよくあることだが、長友ほどに大きな影響を与えながら、それが取り立てて注目されていない、という例はちょっと珍しい。彼が成してきたことは、決して本田圭佑が成してきたことにヒケをとるものではない、と思うのだが、それを押し出したりしないのもまた、長友という選手のキャラクターなのだろう。

あと何年、彼が現役を続けられるかはわからない。だが、引退する時が来ても、引退してから相当な月日が流れても、日本サッカー史上最高の左サイドバックといえば長友、という認識は続く気がする。

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