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football2021.06.09

長谷部誠の存在感は、ドイツの伝説的な英雄、ローター・マテウスに匹敵する

日本サッカー史上最高の選手は誰か。

小野伸二の名前を挙げる人がいれば、いやいや、中田英寿だ、中村俊輔だという人もいるだろう。オールドファンなら釜本邦茂は外せないところだろうし、あと何年かすれば、久保建英が最初の選択肢になっている可能性だってある。酒でも呑み交わしながら、答が出るはずもない論争を続けるのはファンの大きな楽しみの一つでもある。

何をもって自国の「史上最高」とするかは、もちろん、人によって異なる。国によっても異なる。イタリアであれば守備の選手が多く候補にあがるかもしれないし、ブラジル人の口からGKの名前が出ることはまず考えられない。頑なに「神(D10S)はただ一人」と言い張る人がいたとしたら、その人はたぶん、アルゼンチン人だ。

わたしだったら……史上最高の選手にはなれなかったけれど、史上最高の才能を持った選手ということであれば、礒貝洋光に一票を投じる。もちろん、小野や中田、中村も捨てがたい。ただ、そのときの気分が「人とは一味違ったところを見せたい」になっていたとしたら、長谷部誠をイチ押しにするかもしれない。

なぜか。

それは彼が、いまのところ、日本サッカー史上唯一の存在だと思うから。

外国にある外国人の集団に入って、そこでリーダーシップを発揮できる日本人は決して多くない。というか、極めて少ない。自我を全面に押し出すことに重要性を見出さない国民性に、未だゼロにはなっていない人種的な偏見が“掛け算”になって抵抗値を大きくする。つまり、そもそもリーダーになろうとしている日本人が少ないし、日本人がリーダーになれると思っている外国人も少ない、ということだ。



日本代表では強力なリーダーシップを発揮した中田英寿も、イタリアやイングランドでチームにおける“精神的支柱”的な役割は、果たしたことも求められたこともない。小野にしても、中村にしても、それから現時点での久保にしても、期待された、あるいはされているのは、ピッチの上で結果を出すこと、ただそれだけだった。

これは何も、日本人全体を卑下しているわけではない。ヨーロッパほどではないものの、Jリーグであっても外国人選手がキャプテン・マークを巻く例はそれほど多くない。ファンからしても、自分たちの愛するクラブを単なるステップの一つとしか見なしていない選手より、愛着を抱いてくれていると実感できる存在にリーダー役を任せたくなるだろう。

だが、21年の長谷部誠は、アイントラハト・フランクフルトの欠かせないパーツであるだけでなく、周囲からの信頼と尊敬を集める、精神的支柱でもある。いつか誰かが言い出すだろうと思って待っていたら誰も言わないので言ってしまうと、あの年齢でのあのプレーとあの存在感は、ドイツの伝説的な英雄、ローター・マテウスに匹敵すると思う。

しかも、気性の激しさから、若いころからチームメイトや審判、さらには首脳陣やメディアとも衝突を繰り返したマテウスと違い、長谷部のリーダーシップは日本人らしい柔らかさに包まれている。それでいて、卓越した戦術眼で守備陣をまとめながら、機を見れば猛烈な勢いで前線に駆け上がっていく──というマテウスの特徴は、しっかりと引き継いでいる。37歳時点のマテウスと比較すれば、その“上位互換”といってもいいほどだ。

日本人プロ第一号としてドイツで活躍した奥寺康彦は、ブレーメン時代に「東洋のコンピュータ」と言われた。もちろん、ほめ言葉ではある。あるのだが、いまになって思えば、「言われたことを忠実にこなす」という意味合いが強く込められていたようにも思える。

奥寺さんだけでなく、海外でプレーする日本人のほとんどすべては、あくまでも歯車の一つとして扱われ、その意志がチームを動かすような存在になることはついぞなかった。

長谷部誠は、そんな殻をついに破った。

今季のフランクフルトの試合を見ていると、長谷部が守備のリーダーたろうとしているだけでなく、周囲が長谷部に頼っている空気を強く感じる。



こんな日本人選手を、こんなヨーロッパのクラブを、わたしは見たことがなかった。

ミッドフィールダーとしての才能だけで判断するならば、長谷部誠は、必ずしも突出した存在ではない。彼よりも豊かな才能に恵まれた日本人選手の名前を、わたしは相当数挙げることができる。

だが、中田英寿が「日本人選手がヨーロッパで通用するのか」という疑問にヒビを入れた選手だとしたら、長谷部誠は「日本人選手がヨーロッパでリーダーになれるのか」という疑問に最初の、それも極めて強い打撃を与えた選手になった。

振り返ってみれば、1分け2敗に終わった06年ドイツW杯の惨敗によって、ブンデスリーガでは一時、日本人選手を獲得しようとする機運が大幅に下がったことがある。その流れを食い止め、いまのように日本人選手が少しも珍しくなくなるきっかけをつくったのが、08年、長谷部のヴォルフスブルク移籍とその後の活躍だった。

ちなみに、ローター・マテウスと長谷部誠には一つ共通点があって、それは、キャリアのほとんどすべてをプーマ・ユーザーとして過ごした、ということ。

両親がプーマ社に勤務していたため、プーマを履くのが必然で、それゆえ、南部のニュルンベルク近郊で育ちながら、アディダスと密接な関係のあるバイエルンではなく、プーマのシンボルだった遠く離れたメンヘングラッドバッハでキャリアをスタートさせたマテウス。さて、藤枝育ちの長谷部誠にはどんなプーマとの物語があったのか。機会があれば、聞いてみたいと思っている。

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