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football2023.04.07

堂安の発言が引き出した日本人らしいサッカー。これからの日本代表に必要な勝ち方とは?

試合内容は、はっきりいってさっぱりだった。選手や監督の口から「世界一を目指す」という言葉が出てきたわりには、困難な目標に挑戦するという意識の高さは感じられなかったし、志を現実に変えていくための具体策も見えなかった。専門誌方式で採点するとなるとせいぜい「4」がいいところで、100点満点でいうと35点というのが、個人的な印象だ。

ただ、悲観はしていない。

というか、確実な変化というか、進化の兆しめいたものは感じることができた。

まずは、ファンも含めた日本人の意識。

ウルグアイと引き分けた。コロンビアに逆転負けを喫した。ほんの10年前であれば、この結果をもってチームや監督を批判、非難する人は間違いなく少数派だった。むしろ、南米の強豪を相手に引き分けたこと、リードを奪ったことを評価する声さえあったかもしれない。日本は南米勢に分が悪い。そんな先入観を、選手を含めた多くの日本人が抱いていた。

だが、23年の日本は違った。相手がウルグアイだろうがコロンビアだろうが、日本が勝つのを当たり前と考える層が、明らかにマジョリティになっていた。封建体制から近代国家へ、帝国主義から民主主義へと、他の国からするといささか考えられないほどの変わり身の速さを見せてきた、いかにも日本人らしい変貌ぶりだった。

昭和の時代には「勝つと思うな思えば負けよ」という歌う名曲があったが、一方で、スポーツには勝とうと思わなければ勝てない部分が多分にある。苦境に立たされた際、自分に自信のない個人や集団は「ああ、やっぱり」と考えがちだが、勝つ、勝てる、負けるわけがないと考える集団は「大丈夫、乗り越えられる」という発想に至る。

もちろん、大丈夫と考える集団が必ず勝てるわけではないが、それでも、長い目で見れば苦境に直面すると諦めてしまう集団より、諦めずに前を向く集団の方がより多くの勝利をつかむ可能性は高くなる……とわたしは思う。


強いチームを作る、W杯でベスト8や4に入るのは、もちろん簡単なことではない。ただ、それ以上に難しいのは、自分たちはベスト8や4に行って当たり前、という考え方が多数派になること、である。過去、W杯では単発的に躍進した国がないわけではないが、それが継続されることはほとんどなかった。ゆえに、W杯の優勝経験国は、いまだ8カ国に限られているのである。

23年現在、自分たちはW杯で優勝すると宣言しているW杯優勝未経験国は、わたしの知る限り、日本だけである。それを数々の奇蹟を起こしてきたDNAによるものと見なすか、はたまた無知ゆえの蛮勇と受け取るかは人それぞれでいい。ただ、ベルギーやオランダ、コロンビアやメキシコでさえ公式には掲げていない目標を、日本では決して少なくない人たちが口にするようになった。

まずは、そこを評価したい。というか、喜びたい。

ただ、これは必ずしもサッカー界がなし遂げた快挙、というわけではない。他のスポーツ、たとえば大谷翔平が出現し、WBCを制した日本野球の影響も、確実に及んできているように思える。というのも、多くの日本人は、世界一の才能を持つ男が、世界一になるために奮闘し、最終的に勝ち取る姿を目の当たりにした。長く日本人であることを国際大会で勝てない理由にしてきた精神構造に対する、これは巨大な鉄槌だった。

経済の世界では世界最高峰に登り詰めた日本人は、これから、スポーツの世界でも最高峰を目指すようになる。目指せる、と考えるようになる。コロンビア、ウルグアイ相手に勝てなかったという結果を受けて沸き上がった不満の声を、だからわたしは歓迎する。

残念だったのは、国民の意識ほどには、新しい日本代表が変わっていなかったということである。

曲がりなりにも世界一を目指そうというのであれば、まず自分たちの長所を自覚していなければならない。持てる武器を最大限に生かし、敵に脅威を与える。ところが、ウルグアイ戦にしてもコロンビア戦にしても、日本のベンチは、選手は、そこがいま一つ明確になっていないようだった。


いまの日本にとって最大の武器は何か。多くの人が思い浮かべるのは、三笘の存在だろう。では、日本代表での彼は、ブライトンでやっているような仕事を果たせただろうか。周囲は、三笘を生かすことを前提にしたサッカーをやっただろうか。

答は、否だった。

いうまでもなく、三笘はボールに触ってナンボ、相手に向かって仕掛けてナンボの選手である。ボールが渡らなければ、彼の魅力は半減する。言い方を変えれば、いかに三笘が攻撃を始めやすいエリア、ゾーンにボールを運び、状況をセットアップするのが彼を生かすための最適解ということになる。

だが、日本代表での三笘は、あまりにも散発的にしか攻撃に絡むことができなかった。メディアは何回かあったいい場面にフォーカスをしていたが、わたしは消えていた場面の多さの方が気になった。

これは三笘に限った話ではない。コロンビア戦の後半から投入された上田は、その高さで明らかな脅威を与えていた。ところが、ならば彼を使おうという意志が、チームからはあまり伝わってこなかった。言ってみれば、完全なる宝の持ち腐れ。


カタール・W杯でもそうだったが、森保体制の日本代表は、引いてくる相手に手こずることを多くの識者から指摘されている。理由はもちろん一つではないのだろうが、わたしは、武器を徹底して使用するという意識の低さも、その一因ではないかと思っている。

そもそも、ひいて守るチームというのは、何を警戒して自陣に人数を割くのか。突き詰めて言えば、個々の能力では劣勢を覚悟するため、それを人数で補おうとするから、である。

だとしたら、そういうチームが一番恐れるのは何か。

個の能力を発揮される場面である。

わたしにとって、森保体制になってからのベストゲームは、W杯・アジア最終予選、敵地でのオーストラリア戦と、本大会直前にアメリカと行なったテストマッチである。

この2試合には共通項がある。どちらも前線から激しく圧力をかけ、相手のボールホルダーから徹底して余裕をはぎ取った、ということだった。これは、日本が強敵と当たる際にとってきた常套手段とも言える。

ところが、どういうわけか、どんなチームにとっても有効なはずのこのやり方を、日本は力が落ちる相手には使ってこなかった。W杯でのコスタリカ戦もそうだったが、妙にゆったりとボールを持ってしまい、相手に余裕と時間を与えてしまった。

対等、もしくは格上の相手に通用するやり方は、本来、格下にも十分効果的なはずなのだが、日本のベンチは、選手は、それが強敵相手のみに使える手段だと見ているフシがある。

もちろん、相手の力が劣るのであれば、しっかりと自分たちでボールを保持して攻めると考えるのは間違いではない。ただし、ボールを保持するということと、自陣でボールを回すというのは似て非なるものでもある。

ティキタカを編み出したバルセロナは、徹底的にボール保持率にこだわったチームだったが、だからといって彼らのサッカーが退屈だったことはない。それは、彼らのパス交換には、少なくとも3本に1本の割合でタテをつくパスが含まれていたからだった。

タテをつくパスというのは、守る側からすれば急所を狙われるパスである。そうしたパスが頻繁に散りばめられていたからこそ、バルサのサッカーは魅力的で、そうしたパスが極端に少ないからこそ、格下相手の日本代表の試合は退屈なのだとわたしは思う。

ただ、変化の萌芽はあるようだ。


コロンビア戦を終えたあと、堂安は「Jリーグっぽいサッカーだった」というコメントを残し、物議を醸した。どうやら、訴えたかったのは「もっとタテパスを」ということだったらしい。

実は、わたしにはこの堂安の発言こそが、3月の2連戦で一番嬉しいことだった。

やれ上から目線だの、海外マウントだのという声もあったようだが、堂安が代表唯一の海外組で、残りは皆Jリーガーだったというならばともかく、試合に出場したほとんどの選手は海外組だった。彼がいいたかったのは「Jリーグっぽい」というより、「日本人っぽい」サッカーだったということではないだろうか。

日本代表が意味のないポゼッションに走りがちなのは、何も森保体制だけのことではない。ザッケローニ体制だろうがオシム体制だろうが、「なぜそこでちんたらボールを回してるんだ」と憤激させられたことは一度や二度ではない。手段にしたすぎないボール・ポゼッションが、時として目的そのものにすり変わってしまう。日本人にありがちな傾向だった。

だが、堂安はそうしたスタイルこそが問題であるとブチあげた。そして、口にはしなかったものの、コロンビア戦での守田などは、明らかに以前とは違うタテへの意識、あるいは飛び出す勇気を表現していた。先制点をあげた三笘のアシストも、あわやと思わせた上田のヘッドも、どちらも守田からのクロスによるものだったが、ボランチがサイドまで流れてクロスをあげるというのは、無意識にできることでは断じてない。

というわけで、いささか失望はしつつも、遠くにかすかな光が見えたように気はしたわたしである。前線から圧力をかけまくり、三笘が突破しまくり、タテパスが入りまくるサッカー。どう考えたって、つまらないはずはない。

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