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baseball2019.01.23

田中浩康(元ヤクルト・DeNA)自分を練習で追い込んだ学生時代。“早稲田黄金時代”での経験は人生の財産に【インタビュー前編】

平成最後のシーズンが終わり、新たな時代を迎えようとしているプロ野球。一方で、昨年もたくさんの選手がユニホームを脱ぎ、自身の競技生活にピリオドを打った。東京ヤクルトスワローズ、横浜DeNAベイスターズで活躍した田中浩康もそのひとり。
 
プロ14年間で歴代5位となる通算302犠打を記録し、ヤクルト時代はベストナイン2度、ゴールデングラブ賞を1度獲得。粘り強い打撃と堅実な守備でチームを牽引し、多くのファンから愛された。
 
今回は、そんな田中の“野球好き”が凝縮された学生時代を振り返る。

 

小学校卒業後に「野球肘」発症。競技人生が危ぶまれた少年時代

――まず、田中さんが野球を始めたきっかけから教えてください。
 
田中:僕の両親が阪神タイガースファンだったということがきっかけです。京都に住んでいたということから、よく甲子園に応援しに行っていたので、その影響から僕自身も野球を始めるようになりました。
 
当時は1985年の“日本一戦士”である岡田彰布さん、真弓明信さんたちがプレーしていたので、「かっとばせー!岡田っ!」と大声で応援していたのを覚えています(笑)。
 
――野球を始めた頃はどこのポジションを守っていたのですか?
 
田中:最初は主にライトを守っていました。小学2年生で地元のチームに入ったのですが、人数が少なかったので、すぐに5~6年生と一緒になって試合に出場していたんですね。ですが、始めたばかりで高学年の打球についていけませんでしたし、ヒットも打つことができなかったので、いわゆる“ライパチ”として起用されていました(笑)。
 
――いきなり高学年の打球や球速に対応するのは難しいですよね(笑)。中学ではどのような野球生活を送っていたのでしょう?
 
田中:父親の仕事の都合で転校することが多く、京都と千葉を行ったり来たりしていました。野球に関しては、中学校2年生の時に京都に戻ってきたタイミングでボーイズリーグチームの奈良スターズ(現・京田辺ボーイズ)に入団し、そこから硬式野球を始めましたね。
 
――その頃からセカンドを?
 
田中:いえ、実は中学時代は主にピッチャーをやっていたんです。投げることが好きでしたし、肩が強いというのもあり、小学校高学年からピッチャーを任されていたので。
 
ただ、小学校を卒業してから肘を痛めてしまいまして・・・。整形外科で診てもらったら「投げすぎて“野球肘”になっているから、今すぐサッカーに変えた方がいいよ」と先生から言われたんです。
 
ですが野球は続けたかったので、とりあえず1年間はボールを投げず、その間に陸上をやったりとか、野球以外のことにチャレンジしました。それが良かったのか、中学2年生で硬式のチームに入った時に、ボールを投げてみたら痛みがなくなっていて。その瞬間に「あっ、またピッチャーやりたいな」って、心の底から思うことができた。今考えれば、この1年間の“休養”が、自分の野球人生において大きかったのかなと思います。
 
――その期間で肘の回復と同時に、「野球をしたい」という想いも増大したのですね。高校時代は尽誠学園に入学されて、甲子園にも2度(1年夏、2年夏)出場されました。“野球の聖地”でプレーできた時のお気持ちを聞かせてください。
 
田中:まず、当時のチームにおいてセカンドが手薄なポジションだったので、監督が僕に白羽の矢を立てたんです。そういった出場機会に恵まれるような時期でもあったので、高校1年時の夏にいきなり甲子園でプレーすることができた。それによって自信がつきましたし、「さらに上を目指そう」という野球人として高い意識が芽生えた瞬間でもありました。なので監督には本当に感謝しています。

 

高校2年間ホームランなしも、3年時に24本!?  田中浩康が実感した、ウエイト&体幹トレーニングの重要性

――尽誠学園ではどのようなトレーニングをされていたんですか?
 
田中:高校時代から走り込みに加え、本格的にウエイトトレーニングを始めましたね。野球部に専門のトレーニングコーチがいたので、フォームを細かく見てもらいながら、フリーウエイト(ベンチプレス、スクワット、デッドリフト)をこだわって取り組んでいました。
 
特に冬場はウエイトに重点を置いていて、腹筋・背筋といった体幹トレーニングと、フリーウエイトをそれぞれ2班に分けて、毎日しっかりと取り組めるようなメニューが組まれていたんです。
 
それによって、高校3年間で体が大きく、そして強くなったという実感はありましたね。
 
――そういったトレーニングを積み重ねるにつれて、プレーにはどのような影響がありました?
 
田中:打撃よりも先に、守備の動きが変わった感覚がありました。様々なバウンドに合わせられるようになったり、無理な体勢からでも投げやすい体勢を整えてから送球できるようになったりとか。体のバランスが良くなって、身のこなしに“軽快さ”がついてきましたね。
 
――その経験から、いかに体幹を鍛えることが重要かがわかりますね。打撃面ではいかがですか?
 
田中:僕、高校2年生までホームランを1本も打てなかったんですね。ですが、トレーニングの成果が出てきたのか、高校3年時の1年間でホームランを24本も打つことができたんですよ。それぐらい打球の質が変わったなっていう実感がありました。もうこれは生涯忘れられない出来事です(笑)。
 
――1年間でいきなり24本って・・・凄すぎます(笑)。そこまでレベルアップができたのは、やはり練習に多くの時間を費やしてきたからこそ、というのもありますよね?
 
田中:そうですね。練習は毎日夜の19時までやるんですけど、夕食を挟んだ後に自主練習が行われるんです。僕も含めてみんな常にレギュラーを争い、お互い競い合っていたので「12時までやってやるぞ!」って意気込んで、無我夢中でバットを振り込んでいました。僕としては野球が大好きだったので、そういう環境に身を置けるというのは、もう最高でしたね。
 
ただ、夜間練習だけじゃなく、朝練が毎日5時半起床で行われるので、それが一番キツかったです。起きてから顔も洗わずに、5分後にはもうバットを振ってるって感じで(笑)。特に寒くなってくると、ある程度ナイター設備はあっても辺りは暗いですから、冬の朝練は地獄でした(笑)。その中で1時間ぐらいひたすらノックを受け続けるという。
 
――めちゃくちゃ大変じゃないですか(笑)。でも、朝練後の朝ごはんは格別でしょうね。
 
田中:そうなんです。高校時代は寮生活なので、朝ごはんは食堂で食べるんですけど、尽誠学園ではご飯と納豆、卵、そして味噌汁は全て食べ放題なんですよ。僕は必ず、納豆2パックに卵とネギを入れてかき混ぜたものをご飯の上に乗せて、2杯は食べていました。その納豆ご飯を食べるのが毎日の楽しみになっていたので、朝練も頑張って乗り越えることができましたね(笑)。

 

“早稲田黄金時代”を経験。鳥谷敬と二遊間を組んだ3年間は「人生最大の財産」に

――高校卒業後は早稲田大学に進学されましたが、大学での野球生活はいかがでした?
 
田中:高校時代と比べて少しゆとりはありました。はじめは大学って、1日中練習するから授業に出られないっていうイメージを持ってたんですけど、しっかり学校に行って勉強する時間が確保されていたので、野球と学業をバランスよく両立することができました。なので有意義な4年間を過ごせたなと思っています。
 
――なるほど。野球に関してはいかがでしたか?
 
田中:当時の早大は下級生が多く試合に出ているチームだったので、僕も大学1年の春からセカンドとして起用していただけました。
 
その中で、1つ上の学年にいる青木宣親さん(東京ヤクルトスワローズ)、鳥谷敬さん(阪神タイガース)と打線を組ませていただいて、2つ上の和田毅さん(福岡ソフトバンクホークス)がエースとしてチームを引っ張っていました。この時期の早大は本当に強いチームだったので、その一員としてプレーできたということは、プロに入る上でも大きかったです。
 
――もう選手の名前を聞くだけでワクワクしてしまいます(笑)。鳥谷選手とは一緒に二遊間を組まれていましたよね。
 
田中:はい。鳥谷さんはご自身が大学2年生の時、春季リーグで三冠王を獲得されていて、僕が入学した頃にはすでにチームの中心選手でした。そんな素晴らしい方と3年間も二遊間を組ませていただいたので、その時の経験は野球人生において大きな財産になりましたね。
 
僕が大学2年生の時には第1回世界大学野球選手権、2年・3年時にも日米大学野球選手権大会の日本代表メンバーに、鳥谷さんと一緒に二遊間で選出していただきましたし。一緒に大きな舞台を経験できたというのもいい思い出です。
 
――実際に世界のチームと戦って、他国の野球というのは田中さんの目にはどのように映りましたか?
 
田中:とにかくハングリーだなぁという印象がありますね。1プレーに対する執着心が強くて、実際に試合をした時にものすごい気迫を感じたことを覚えています。
 
第1回世界大学野球選手権では、当時の法政大学監督だった山中正竹さんが日本代表の監督も務めていたんですけど、大会に向けて「国際大会ではいろんなことが起きる。グラウンドやホテルでの環境も含めて、気をつけながら戦っていこう」と言葉をかけていただいたんですね。
 
大会はイタリアで行われたんですけど、実際に宿泊したホテルで急に水道が止まったり、試合会場への移動バスが遅れて試合開始ギリギリに到着したりとか。そういった様々なハプニングに遭遇したので、山中監督からの言葉があったからこそ動じずに試合に臨めた、というのはありました。
 
それと同時に、日本という恵まれた環境で野球ができていることに対して、改めてありがたく感じることができた。そんな大会でもありましたね。



後編 につづく

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