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baseball2019.04.03

八木将康(劇団EXILE)│駒大苫小牧高野球部での3年間が、自分を強くしてくれた【前編】

劇団EXILEのメンバーとして、舞台、映画、TVドラマへの出演や歌手活動など、活躍の場を広げている八木将康さん。そんな彼は、田中将大(現ニューヨーク・ヤンキース)の1学年上の先輩として、駒大苫小牧高校野球部で甲子園に出場した経験を持つ。
幼少期から野球中心の生活を送っていたという彼が、舞台に立つようになるまでの人生は、いったいどんな道のりだったのか。そして、トップレベルのチームで野球に打ち込んだ経験は、彼に何をもたらしたのか。これまであまり知られることのなかった、「野球経験者」としての一面を紐解いた。

■兄の背中を追いかけて始めた野球

──野球を始めたきっかけを教えてください。

 
2歳上の兄(EXILE SHOKICHI)がやっていたからですね。僕は小さいころ兄の真似ばっかりしていて、じゃあ俺もやるんだな、と自然な流れで始めました。それに、もともとうちは野球一家で、父が駒大苫小牧の野球部出身なんです。それで、子どもにもさせたいって思っていたみたいで。物心ついたときから家にボールとグローブ、バットがあったから、環境的にも野球をすることが当たり前だったのかもしれません。当時は社宅に住んでいて、近所にたくさん友達がいて。壁当てをやって「うるさーい!」って怒られたり……(笑)。毎日のように野球をして遊んでました。
 
──チームに入って野球をするようになったのは何歳からでしたか?
 
小学校3年生のときです。初めは外野手をやっていて、小学校高学年になるにつれてピッチャーをするようになりました。そのまま中学でもメインはピッチャーで、自分が投げないときは内野を守ってました。高校に入ってからは、今思えば何でかわからないんですけど、自分で志願してサードをやってました。駒大苫小牧はツーポジション制なので、「キャッチャーもやってみろ」と言われてキャッチャーもすることに。メインのポジションはサードのまま、試合に出ないときはブルペンで球を受けたりもしていました。
 
──そもそも、駒大苫小牧で野球をすることになったのはどうしてだったのですか?
 
中学生のとき、ありがたいことに声をかけてもらったんです。地元・苫小牧の中学で有名な人たちが集まる高校だから、入ってすぐのころはみんなの上手さがとにかく衝撃で、やばいやばいとしか思えませんでした。本当に必死に野球をやっていたので、高校1年生の365日が、今までの人生でいちばん短く感じましたね。無我夢中すぎて、記憶もあんまりないくらいです(笑)。


■負けたくないライバルがいた

──2003年夏の甲子園出場、2004年夏の甲子園優勝、2005年春のセンバツ出場、2005年夏の甲子園連覇……と、八木さんがいたころの駒大苫小牧野球部は黄金時代と言われていました。八木さんご自身は、どんなふうに試合に出られていたのですか?

 
僕が甲子園でベンチに入れたのは3年(2005年)の春の甲子園で、そのときは2回戦で負けてしまいました。夏の甲子園でもベンチに入れていたら優勝だったのにな……。もったいなかったな〜(笑)。3年の春くらいから監督に「ファーストもやってみろ」って言われてたんですけど、僕はサードにこだわったんですよ。あのときファーストをやっていれば、また違った道があったのかもなあ、と今でも思いますね。
 
──それでも、100人以上いる強豪校の中で、18人のメンバーに選ばれたのはものすごいことだと思います。
 
いやあ、嬉しかったですね。甲子園のグラウンドにいざ立ってみると、なぜかすごく広く感じるんです。あの景色は一生忘れないだろうな。あと、北海道で生まれ育った身には、春でも暑さがこたえましたね。結局、試合には代走で出場しました。代走を終えたらすぐに下がって、ブルペンで一学年下の(田中)将大の球を受けて、という感じでした。
 
──ちなみに、サードのポジションにこだわったのはどうしてだったのですか?
 
負けたくないやつがいたんですよ。僕はサードで2番手だったので、同学年でレギュラーの五十嵐大という男に負けたくない一心でした。彼は、身体が小さいのにめちゃめちゃパワフルで、アグレッシブなプレーが持ち味。しかも、打席でもチャンスに強くて。僕は、彼にどうにか勝とうとライバル心を燃やして、守備にこだわったんですけど……結局、背番号5をもらったのは彼でしたね。


■人前に立つと泣いちゃうような子どもだった

──高校時代、チームではどんな立ち位置でしたか?

 
今は劇団でいじられ役なんですけど、考えてみたら高校時代もかなりいじられてましたね。一発芸とか、しょっちゅうやらされてましたもん(笑)。僕、小さいときは人前がめちゃめちゃ苦手だったんです。でも、スポーツはできるほうだったので、小学校で運動会の選手宣誓とかやってたんですよね。そういうとき、人前に立つと泣いちゃってたんです、緊張で……(笑)。それくらいみんなに見られることが苦手だったのに、野球を通して、少しずつ大丈夫になっていきました。野球では、試合に出ること自体がチームを代表しているわけですし、自分の両親、友達の父さん母さんとか、たくさんの人に見られているなかでプレーします。それに、打席でも守備でも、一人の選手に注目が集まるスポーツでもありますからね。野球をやっていなかったら、舞台に立つことなんて考えられないような人生を送っていたかもしれません。
 
──強豪校で野球をするうえで、練習のきつさやレギュラー争いなど大変なこともたくさんあったと思います。それでも、野球を続けられたのはどうしてだと思いますか?
 
そもそも、やめようっていう考えが一度も浮かばなかったんですよ。なんでだろう? もちろん野球が好き、もっとうまくなりたいっていう気持ちがあったのと……やっぱり、父さん母さんの存在がでかいかもしれません。試合を観にきてくれて、「今日すごかったな、よかったな」って言ってくれるときの笑顔を見ると、また褒められたいな、喜ばれたいなって思ってました。
 
──野球をやっていていちばん気持ちいい、楽しいと感じる瞬間はどんなときですか?
 
たくさんありますよ。アウトをひとつとるのもうれしいし、気持ちいい。仲間に信頼されて「頼むぞ」って送り出される感覚もすごく好きだし、カーンと打って「いったー!」って確信する瞬間なんて、もう最高です。こういうひとつひとつの気持ちよさがあるから、普段の練習が苦しくても、続けられるんでしょうね。
 
──なかでも、特に印象に残っていることはありますか?
 
春の甲子園でベンチ入りする少し前なんですけど、打てる気しかしない時期があって。紅白戦でもホームランを打ったり、覚醒した感覚がありました。なんだか、ボールが大きく見えて、そんなに力を入れて振らなくても飛ぶんですよ。あの時期は最高でした。そのとき活躍できたのもあって、春のセンバツでベンチ入りできたんだと思います。
それと、駒大苫小牧の野球部では、挨拶のときや、試合中気合を入れるとき、勝ったときなんかに、人差し指を立てるポーズをするんです。甲子園で優勝したとき、マウンドに集まってみんながこのポーズをしていたのを覚えている方も多いんじゃないかと思います。これは、オンリー1、ナンバー1を目指そうということで、野球部での決まりごとというか、ジンクスみたいなもの。ピンチの場面にマウンドに選手が集まって、「ひとつずつアウト取ってこ」「よしっ」って言って、みんなで「さあ行くぞって」人差し指を掲げてからまた散っていくのとか……「ちょっと俺たちかっこよくね?」って思う瞬間でもありました(笑)。それくらい誇りを持っていたポーズでもあるので、人差し指を立てるときは身が引き締まりましたね。
 
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後編(4月10日公開) では、現在の活動に野球がもたらしてくれたこと、そして今後八木さんがどのように野球に関わっていきたいかについてお伝えします。


[プロフィール]

八木将康
俳優。1987年生まれ。北海道苫小牧市出身。劇団EXILEメンバー。2012年、舞台「あたっくNo.1」をきっかけに、劇団EXILEに加入。2018年には「CRAZY四角形」名義で歌手デビューも果たした。駒大苫小牧高校時代は2005年選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)に出場。

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