森本稀哲(元日ハム・横浜・西武)│野球は失敗の多いスポーツ。だからこそ、大人になっても面白い【前編】
躍動感あふれる全力のプレースタイルや、数々のタイトルを獲得した実績はもちろんのこと、それまでのプロ野球の常識を覆すようなユニークなパフォーマンスでファンを惹き付けるなど、球界のムードメーカーとしても多くの人の記憶に残り続ける森本稀哲さん。
“全力であきらめず、楽しく野球をする”というポリシーを持ち、「やりきる」ことを積み重ね結果につなげていたという彼の野球人生について、原点である野球との出会いまでさかのぼって話を聞いた。
■サッカー少年が、野球少年へ
──森本さんが野球を始めたきっかけを教えてください。
僕はもともとサッカー少年だったんですよ。小学校1年生から4年生まではサッカーをやっていたんです。だけど、サッカーチームに友達がなかなかできなくて。当時サッカーは1年生から6年生まで全員が同じチームだったので、上級生に追いつくのも大変だったのもあって、あまり面白くなくなってしまったんです。そんなときに、学校の友達から「野球やろうよ」と声をかけられました。最初は、まったく違うスポーツを始めることに抵抗もあったんですけど、やってみようと。いざ始めてみたら、仲の良い友達と学校が休みの日も一緒に過ごせるっていうことがすごく楽しかったんですよね。
──その前から、テレビ観戦などはされていたんですか?
夜9時からのドラマとかね……野球が延長すると放送が遅れたり、見られなくなってたでしょ……?(笑) だから、子どものころは「なんでこんな毎日野球やってるんだよ」と思っていました。次の番組を待っている間もテレビで野球はついているから、嫌でも覚えちゃうんですよね。「またこの選手投げてるよ~」とか、そんな感じでした(笑)。
──野球をプレーするようになって、どうでしたか?
それまでにもグラウンドでちょっとボールを投げてみたり、ということはありましたけど、野球自体をやったことはぜんぜんなかったんですよね。でも、運動神経はいい方だったので、割とすぐに打てるようにはなって、「楽しいな」と思えるようになりました。野球って、ホームランを打てば「1点」ですよね。それまでやってきたサッカーの「1点」とは、ある意味重みが違う。サッカーは1試合の間に2~3点しか入らないことが多いけれど、野球は5~6点入るスポーツ。自分がホームランを打ったとしても、勝ちを決められるどころか、試合の流れが変わるとも限らないですからね。だからこそ、チームとしての力が大事なんだな、というのはすごく実感するようになりました。とはいえ、最初は「打ってくれよ~」「俺にまわしてくれよ~」みたいに思うことが多かったですけどね(笑)。
──チームの一員として、何か当時から意識されていたことはあるのでしょうか?
小学校高学年になっていくと、チーム内での自分のあり方なんかも客観的にもとらえられるようになってきました。負けたときにチームとして「悔しい」「もうちょっとで都大会いけるぞ」なんて認識できるようになるんですよね。すると、それまで日曜日だけただただ楽しくて練習していたのに、「もうちょっとうまくなりたいよね」っていう気持ちが小学生ながらに生まれてきたんです。それからはみんなで自主的に走ったりとか。平日の夜も集まって練習したり。当時はまだ小学生だったけれど、青春時代みたいな感じでした。
■「できた!」という喜びが原動力に
──野球をすることそのものの“楽しさ”は、どんなところに感じていましたか?
やっぱり、打ってそれがヒットになったり、ホームランになったり。当時はランニングホームランなんですけど。それが一番楽しかったですね。上手にできたぞとか、点が入ったぞ、とか。子どもって成功体験に喜びを感じるものなので、「できた!」という嬉しさが原動力になっていたと思います。
それに、小学校のときは厳しいチームではなかったんです。いわゆる仲良しチームで。それも良かったんですよね。ミスしても「コラー!」って言われることも滅多になくて、「よしよし、がんばれ」という感じだったので。それで楽しく続けられたのは大きかったです。
──その後、中学でも野球を続けるのは自然な流れだったのでしょうか?
ちょうど僕が中学校に入るくらいのときにJリーグが発足されたんですよ。当時はもう自分のなかで野球がメインになっていて、サッカーはたまに遊びでやるくらい。気づけば真逆になっていたんですよね。でも、やっぱりサッカーは好きでした。サッカー界がものすごい盛り上がりを見せているのを感じて、できるものなら野球もサッカーも、どっちもやりたいなって思いました。それで東京ヴェルディのテストを受けに行ったのですが、落ちてしまって。「もう野球しかないな」ということで、野球一本で頑張ろう、と決めました。
──中学時代はどんなふうに野球に取り組んでいましたか?
中学は、ちょっと厳しいところに進みました。練習も結構大変で。素振りとかも「しろ」って言われて、毎週マメができているかチェックされたり。最初はやらされている感覚もありましたが、だんだん自分から素振りをしたい、と思えるようになっていったんです。「打ちたい」とか「悔しい」っていう思いだったり、あとは病気のこともあって僕は負けん気が強かったし、認めてもらいたいっていう気持ちもあって。自分の中に向上心が生まれたその瞬間からは、ぐんと野球がうまくなった気がしています。やっぱり、自分自身の感情で自分を動かすっていうことほど強いものはないんですよね。
──その思いに気づいてからは、自分自身で「もっと練習を頑張ろう」、と。
そうですね。野球がうまくなりたい、という思いが強ければ強いほど、練習も苦にならないし。やればやるだけ自分のなかで変化することが分かるようになっていきました。周りにはわからないかもしれないけれど、何となく振りが強くなってきたとか。バットの出方がしっくりくるようになる、とか。まだプロ野球選手でも何でもない、当時の森本少年もそれに気づけたので。自分から「やりたい」と思って練習することの大切さを実感できるようになりました。
それから僕がよかったと思うのは、その後も野球を嫌いになることがなかった、ということ。唯一辞めたいと思ったのは、高校に入ってから走り込みをやらされたときと……あとは、合宿中の連続ノック。それ以外では辞めたいと思ったことはなかったですね。
■甲子園への憧れが膨れ上がった
──その後帝京高校へ進学したい、と思うようになったのはどうしてだったのでしょう?
「甲子園に出たい」という憧れを持つようになったからです。僕らが小学校高学年くらいのとき、帝京高校は全盛期。当時は三澤興一さん(現・ジャイアンツ二軍投手コーチ)たちをテレビで観ていたんです。単純に子どものころって、テレビに出ているっていう時点で「すごい!」というイメージを持つじゃないですか。甲子園に出られるっていうこと自体がものすごいことだっていうのもなんとなくは分かっていたし。地元東京のチームでしたし、あの縦縞のユニフォームとかも印象に残って、かっこいいな〜、と。野球少年としての、純粋な憧れですよね。あとは、小学校のチームの先輩が、世田谷学園高校で甲子園に行ったのを合宿中にみんなで観た経験も大きかったですね。何年か前まで一緒にやっていた身近な先輩がテレビに映った瞬間に、観ている僕らはこんな気持ちになるんだ、と。僕が出たら同じようにみんなも喜んでくれるかな、とか。とにかく憧れが膨らんでいきました。
それで中学に入ったとき、その野球部から帝京高校に入った選手が何人かいて、有望な選手はセレクションに連れていってもらえるというのを聞いていました。監督からも「お前も頑張れば、もしかしたら帝京に入れるかもしれないな」と言ってもらえたんです。それから本格的に「帝京高校に入りたい」という気持ちが強くなりましたね。小学生のころは「憧れ」だったのが、ちょっと近い「目標」になっていきました。
──さきほど高校時代に二回だけ野球を辞めたいと思ったことがある、とおっしゃっていましたが、高校での練習は大変でしたか?
一年生走りや合宿でのノックのときは、「何これ……」と思っていましたね(笑)。ただただキツイだけだったので「これでうまくなるのかな」「でもそんなもんなのかな、しんどいな」と。結構冷静に見ていた部分もあります。でもまあ、せっかく憧れて入ったし、このままで終わるなんてことはナシだな、と。まずはレギュラーをとって東京都大会を勝ち進んでみたい、という思いが支えでした。
結局、1年生でレギュラーになるという夢は叶えられたのですが、一番の目標はやっぱり甲子園ですよね。だけど、ずっと試合に出続けていたものの、甲子園にはなかなか行けず。「帝京に行けば甲子園に行けるんだろうな」と思っていたのに、いざ実際に試合に出ていると、やっぱり他のチームも強いわけです。簡単には一番になれないという現実を、見せつけられました。帝京高校のレギュラーになって、自分の代ではキャプテンにもなって……と、ある意味夢は叶えられているけれど、甲子園には行けていないという、絶望感と夢がこんがらがった感じの日々でした。だからこそ、甲子園に出たいという思いは強烈に持ち続けていましたし、最後の夏でやっと出られたときは、言い表せないような嬉しさがありましたね。
■「自主性」が上達の秘訣
──なかなか甲子園に行けなかった日々のなかで、毎日の頑張りに変化はありましたか?
単純に「甲子園に行くには、東京で一番のチームにならなければいけない」と。そのためにはチームとしてまとまらなければいけないというのを、キャプテンになってから考えるようになりました。それで始めたのが、とにかくチーム全員、一人ひとりとコミュニケーションをとること。帝京高校野球部には、関東でもトップクラスの選手が集まるので、個性の強い人ばかりなんです。だから、実力はあるけれどいまいちチームとして一つにまとまらない、というのがあったんですよね。「優勝しようぜ」「みんなで同じ方向目指そうぜ」と言ってもなかなかそうはいかない。だったら、まずは自分がみんなと仲良くなればいいじゃん、と。そうすれば、僕が「みんなでこうしようぜ」と言ったときにも、「あいつが言うなら」って思ってもらえるんじゃないかと考えたんです。
それからは、一人ひとりのプライベートに付き合って、買い物に行ったり、ご飯を食べにいったり、カラオケに行ったり。めんどくさいなって思うときもありましたけどね(笑)。でもそのおかげで「この人はこういう感覚を持っているんだ」と分かることも多かったし、お互いに理解を深める良いきっかけになりました。
それと自分たちの代は優勝候補筆頭で、練習試合も打ちまくっていてほぼ負けたことないんじゃないかっていうくらい期待されていたんです。にもかかわらず、秋季大会では準々決勝で負けてしまって。それまで僕が入学してから一日も休みなしでぶっ通しでやってきたのに、選手も監督もがくーっときちゃって、全体練習が休みになる日が増えたんですよ(笑)。でも逆にそのおかげで自主性が生まれて、みんながよく練習するようになってきたんですよね。やっぱり、やらされるのではなく自分たちで考えて練習をするようになったことで、その後ぐんと強くなっていった実感がありました。
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後編では、プロ入り後の活躍の裏にあった意識の変化や、引退後に実感するようになったという、野球の魅力的な一面についてお伝えします。
#プロフィール
森本稀哲
1981年1月31日生まれ。帝京高校在学中、第80回全国高校野球選手権大会に出場。1999年ドラフト4位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。2011年横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)移籍。2014年埼玉西武ライオンズへテスト入団。ベストナイン1回(07年)、ゴールデングラブ賞3回(06・07・08年)、日本シリーズ優秀選手賞1回(06年)、オールスター優秀選手賞2回(06年第2戦、07年第2戦)、オールスター新人賞(06年)。2015年に現役を引退し、現在は野球解説者として活躍する。著書「気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣」(ダイヤモンド社)。