ティモンディ(野球芸人)が語る、済美高校の奇妙な練習とは「剣道の小手とラグビーボールを使いました」【インタビュー前編】
高校野球の名門、済美高校(愛媛県)出身の同級生お笑いコンビ「ティモンディ(グレープカンパニー所属)」。高岸宏行(27歳)の独特な口調から繰り出す大胆なギャグに対して、冷静沈着な突っ込みで返す相方の前田裕太(27歳)。2人が出演するYouTube「ティモンディ ベースボールTV」の人気は凄まじく、野球芸人として大注目を浴びている。今回、ティモンディの2人に、高校野球部時代の話を中心に語っていただいた。
――まず、野球を始めたきっかけを教えてください。
高岸:僕が0歳の時に、グローブと一緒に寝ている写真があります。父親が野球を大好きで、小さい頃から草むらで兄弟と野球を始めたのを覚えています。
前田:高岸は利き腕が左なのですけど、家に右利き用のグローブしかなかったので、右利きになったということです。
――補足をありがとうございます。前田さんは、なぜ野球を始めたのですか?
前田:僕は小学3年生の時でしたね。友達に野球を誘われてやってみると、凄く褒められたのが楽しくなって、のめり込んでいきました。
――小学生の時、どのような思い出がありますか?
高岸:ポジションは、ずっとピッチャーでした。指導者と保護者のお陰で、楽しく伸び伸びと野球をできました。野球を通じて、友達との絆を深めることができましたよね。
前田:僕は、ピッチャーと外野をやっていました。ホームランを打つとメダルを貰うことができて、家にメダルが沢山ありました。バッティングに自信が付きましたよね。
――高岸さん、得意なプレーはありましたか?
高岸:僕はキャッチボールが苦手で、ボールを捕れるようになるまでに1年はかかりました。野球で自信なんてなかったので、周りの仲間たちが「一緒に成長しよう」とやってくれたので楽しかったですよね。
――中学時代はどうでしたか?
高岸:毎日、壁に向かってボールを投げていたので肩が強くなり、中学でもピッチャーをやらせてもらいました。新しい仲間も増えて絆ができたのが、宝物となりましたね。
前田:中学時代の監督が厳しかったのでしょ?
高岸:はい。監督が平安高校のご出身で、いわゆるスパルタ教育でしたね。練習で毎日200球投げて、バッティング練習はやらずに試合で打席に立つという3年間でしたよね。
――前田さんはどうでしたか?
前田:僕が入ったボーイズリーグのチームは、結成されて3年目のチームで人数も少なくて、1年生の時から公式戦に出場していました。3年生と体格の差がかなりあったので、「試合でどうやって戦うか」ということを常に考えながらプレーしていましたね。
その時の考え方が、今の仕事にも役立っています。例えば、仕事ですごく実力がある先輩の芸人さんとご一緒した時に、「僕らがどうやれば良いのか」と考えるようになっています。
――高岸さん、前田さん、なぜ済美高校へ進学したのですか?
高岸:春夏の甲子園を皆で一緒になって応援するパワーのすごさを見て、僕も高校野球でやりたいと思っていました。地元の愛媛県にある済美さんからご縁があったので、迷わず行きましたね。
前田:当時の済美は、全国で1、2番目に練習が厳しいと言われていました。それに対して何も思わなかったの?
高岸:当時練習をすればする程、量をこなせば上手くなると思っていたので、ワクワクしながら済美に飛び込みましたね。
――前田さんは、なぜ済美に?
前田:僕は、全国の強豪校から声をいただいていました。済美が選抜初出場で初優勝をして、夏に準優勝したのを見ていました。「済美で甲子園に出て活躍したい」というのを考えて進学しましたね。
――そして2人は、運命的な出会いを果たしたのですね。
前田:入寮した初日に仲良くなりましたね。覚えているよね?
高岸:新しいチャレンジ。皆ギラギラしている中で、初めて目が合ったのが、前田でした(笑)。
前田:高岸は、ニワトリみたいな目をしていましたね(笑)。
高岸:それで一緒にキャッチボールをして仲良くなりました(笑)。
――1年生の時の思い出を教えてください。
前田:1年生の時が1番しんどかったですよね。やったことがない、よく分からないことが多かったですから。
高岸:最初、監督さんと先輩が話す言葉を理解できなかったですからね。
前田:野球の発声や監督の方言の意味が分からなく、外国に来たような感覚がありました。よく分からない状態が続いたので辛かったですが、発声などを1ヶ月練習すると、徐々に慣れていきましたね。
――2年生の時はどうでしたか?
前田:高2になると後輩ができたことによって、上下関係が少しは楽になりましたね。その年は、これに勝てば甲子園という試合で大敗しました。高岸は先輩たちの試合に出ていたよね?
高岸:その試合で、2対13で負けました。最終回で僕が投げて4失点をしてしまいました。試合後、先輩から「お前らの代は甲子園にいけよ」と言っていただき、「僕もこういう先輩になりたい」と思わせてくれる良い経験になりましたね。
――高校最後の年。甲子園出場を果たせましたか?
前田:辛い時期を他のメンバーと一緒に頑張ることができたので、ある意味家族となったような感じがありました。
高岸:高3は集大成でもありますし、苦しみを一緒に乗り越えて、勝利をするという喜びを分かち合いました。残念ながらあと一歩で甲子園に出場することができませんでしたが、これからもずっと野球部の皆が家族であり仲間であると思います。
前田:僕と高岸は背番号をもらっていましたが、もらえない同級生達がスタンドから応援してくれていました。今思うと、彼らは精神的にすごく大人でしたし、これからも恩返しをしていきたいと思います。
高岸:これまで、皆さんから応援によるパワーをいただいてきました。芸人をやることで恩返しをしたいですね。僕らが皆さんを、世界中を応援していきたいと思いますよね。
――素晴らしいですね!
高岸:いえいえ。「素晴らしい!」と言えるあなたが素晴らしいですよね!
――ありがとうございます(笑)。高校3年間で、1番思い出に残ることは何でしたか?
前田:僕自身は2年生の時に背番号をもらえると思っていたのに、もらえなくて辛い時期を過ごしたことがありました。悔しかったですが、それを乗り越えて3年春の県大会に出場した時に、「報われて良かった」と思いましたね。
高岸:僕はどの練習も試合も、全部が1番の宝石となりますね。
――当時、野球用品こだわりはありましたか?
前田:グラブやスパイクというよりも、普段の練習で使う道具を監督さんがこだわっていたのを思い出しますね。鉄の棒、剣道の小手など色々な道具を使って練習していました。守備で飛び込んでボールをキャッチする練習の際に、小手を使っていました。グラブや軍手で飛び込むと突き指をしてしまう危険性があるのですが、頑丈な小手が指を守ってくれたので、思いっきり飛び込むことができました。他には、ラグビーボールを使って練習したよね?
高岸:ラグビーボールを叩きつけて、イレギュラーしたボールを捕る練習をやりましたね。
前田:「野球に関係ない道具でも、野球に繋がるかもしれない」と思って取り組んでいました。
――高岸さんは、野球用品にこだわりはありましたか?
高岸:道具。道具はペットと同じですから、これと決めたものは全て愛着を持って使っていましたね。僕が触れたものが、僕のポケモンだと思って使い続けましたね。
後編へ続く