プロ11年目”遅咲きの首位打者”日本ハム・松本剛、躍進の背景にあった新庄監督との約束
11年。短い年月ではない。小学校に6年間通い、中学校も卒業して、高校生活が最終段階に入ろうとして、やっと迎えられる年月。それだけの年月を一つの場所で過ごしていれば、愛着がわくと同時に、自分の立ち位置、居場所のようなものも見えてくる。
たとえば、それがプロ野球選手だったとしたら。
高校を卒業して飛び込んだ憧れの世界。もちろん、最初からレギュラーになれるなんて思ってもいない。それでも、いつかは、そう、大学に進んだライバルたちがプロの門を叩くころまでには、何らかの結果を出していたいとは思う。
だが、プロ入り5年目がすぎても、結果を出すことができなかったら。7年目、9年目をすぎても確固たる地位を築けていなかったら。
自分の可能性を信じ続けるのは、簡単なことではない。自分はこの程度、と沸き上がってくる諦めを押し殺すのは簡単なことではない。
松本剛にとっても、それは同じことだった。
名門・帝京高校からドラフト2位で日本ハムに入団した彼は、昨年、プロ入り11年目のシーズンを迎えていた。その間、シーズンを通じて1軍でプレーできたのはプロ入り6年目の1シーズンのみ。しかも、さらなる飛躍を期待された7年目のシーズンは、ケガなどもあって出場試合は前年度の半分以下に落ちてしまった。
「もともとプロの世界が簡単じゃないっていうのは覚悟してましたし、ある程度は予想していた通りではあったんです。ただ、5年目ぐらいからは、クビの不安を感じた時期もありましたね」
順調なキャリアを重ねる選手にとって、年月は基本的に味方である。人気を高まる。年俸もあがる。引退後の選択肢も増える。だが、そうでない選手に対して、年月は残酷な一面を覗かせる。毎年新しく入ってくる有望株は、古株から期待と機会を奪っていく。
野球に限らず、プロの世界は実力がない者が生きていける世界ではない。ただ、実力のある者すべてが成功できる世界でもない。プロ入り11年目を迎える松本は、そのことを痛感していた。
「プロ入り6年目に、プチ・ブレイクっていうか、ちょっと活躍できたシーズンがあったんですけど、なんでぼくにチャンスが来たかっていうと、主力のケガなんです。ケガがなかったら、または最初に代役として抜擢された選手が活躍していたら、ぼくの出番はなかった。そういう巡り合わせっていうか、運みたいなものはやっぱり重要だと思います」
結局、主力のケガによってつかみかけたチャンスを、彼は自らのケガで手放してしまう。運が、巡り合わせが松本を後押しすることは、以来、なかった。
だが、21年のオフ、日本ハム球団は球界を揺るがす決断を下す。球団OBにして希代のエンターティナーとしても知られた新庄剛志を監督として招聘したのである。
就任記者会見の席で「優勝なんか目指しません」と言い切って賛否両論を巻き起こした“ビッグボス”は、自軍の選手たちにもインパクトのある一言を告げていた。
「これまでのレギュラーは白紙、全員が横一線だっておっしゃったんですよ。あの言葉で、自分の中のスイッチが入ったところはありましたね」
もし本当に全員が横一線からのスタートになるのだとしたら、レギュラーではなかった松本にとっては先行者との距離がチャラになったことを意味する。もう届かないかもしれないと思い欠けたこともあったレギュラーの座が、突如として目の前に出現した。もし本当に、新監督がその言葉を守ってくれるのであれば。
「ウソじゃなかった。本当に横一線でした。結果を出したら、すぐに次の機会も与えてもらえた。それで勢いに乗れたところはあったと思います」
勢いに乗れた、どころではなかった。開幕直後から松本のバットは火を噴き続けた。プロ生活でたった一度しか既定打席数に届かなかった男が、そのときは打率2割8分にも届かなかった男が、3割5分を超える確率で安打を量産し続けた。プロ入りして初めて打率ランキングの一番上に掲載された松本の名前は、梅雨が明けてもそのままの位置を保っていた。
だが、試練が待ち受けていた。7月19日のオリックス戦で彼の左膝を襲った自打球は、左膝の骨を砕いてしまったのである。
「めちゃくちゃショックでした。お医者さんから診断を告げられた時もショックでしたし、感覚上、そう簡単に100の状態には戻らないだろうなってことも薄々わかった。目の前にすだれがダーッと下がってきたような、そんな気持ちでした」
つかみかけていた二度目のチャンスは、松本にとって、最後のチャンスとなる可能性もあった。だが、ビッグボスからかけられた言葉が、彼を救った。
「100に戻さなくていい。60ぐらいにまで戻してくれれば、俺は使うぞっておっしゃってくれたんです。うわ、それならできるかもって思いました。たぶん、今シーズン中に100の状態に持っていくのは難しい。でも、60ぐらいだったらなんとかなる」
新庄剛志からかけられた言葉はそれだけではなかった。
「で、首位打者を取らせるからなって。正直、それだけはまったく信じようって気持ちにはなれませんでしたけど」
松本には、1シーズンを完走した経験がほとんどない。ケガをした彼がまず恐れたのは、つかみかけたレギュラーの座を失うことだった。だが、仮にベストの状態に戻らなかったとしても起用することを約束してくれた指揮官の言葉によって、芽生えかけていた焦りや不安の大半は除去された。
ケガをした当初に予想されたよりはかなり早く、松本は戦線に復帰した。パ・リーグがDH制をとっていたことも彼に味方をした。60パーセント程度回復した彼の膝は、バッティングにはほぼ悪影響を及ぼさないまでになっていたが、全力疾走の守備となるとまだまだの状態だったからである。
復帰の段階で、松本は打率が大幅に下がることを覚悟していた。思ったより打てるようになっていたとはいえ、膝は打撃の発射台である。そこが万全でない以上、それまで通りの打率を維持できるとは到底考えられなかった。周囲が「遅咲きの首位打者誕生か」と騒がしくなってきても、彼はまったく違うことを考えていた。
「復帰した段階で、既定打席に100ぐらい不足してたのかな。まず考えたのは、100打席凡退したら、打率どうなるんだろってことでした。計算したら2割6分ぐらい。うわ、結構落ちるなとも思ったんですが、逆に、1本ヒットを打てば、2割6分まで落ちないことになる。10本打った。お、これであと全部打てなくても2割7分。15本打った。うわ、キャリア・ハイ……そんな計算してました」
残り全打席を凡退しても3割を切らないことが決まった段階で、彼は十分に満足していた。首位打者?追い上げてきていたのは、2年連続首位打者の吉田正尚である。到底、逃げきれるとは思えなかった。
だが、キャリアハイどころか、3割4分をも切らなかった松本の打率に、後に侍ジャパンの4番を務めることになる男も届かなかった。
11年目の首位打者が誕生した。
松本の人生は変わった。WBCの開幕直前、主力として期待された鈴木誠也がケガで代表を辞退することになった際、代役候補として名前があがった数人の中に、松本は含まれていた。最終的に代表入りはかなわなかったものの、彼の名前があがったことに驚きを表す声はほぼ皆無だった。
かくして迎える23年のシーズン、新スタジアムを手にした日本ハムは、昨年とはまったく違う戦いに挑もうとしている。
「昨シーズンは、優勝なんか狙わないって言葉が本気だったんだなって感じる采配が、ところどころにあったんです。そのあたり、今年はまったく違うでしょうね。新スタジアムが天然芝っていうのも、ヒザに不安のある人間としてはめちゃくちゃ嬉しいです」
松本に向けられる周囲の目も昨年とは違う。吉田がメジャーに去ったこともあり、彼には2年連続首位打者という期待もかかる。
もっとも、松本自身に浮ついたところは少しもなかった。
「簡単なことじゃないですよ。ただ、そこに挑戦できるのはパ・リーグではぼく一人なんで、精一杯頑張っていきたいと思います」
遅咲きの花は、さらなる大輪の花を咲かせるのか。咲かせてもらいたい、というのが、取材をさせていただいた人間としての率直な思いである。
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