藤浪晋太郎、メジャーでの復活へ挑む!成功のための必須条件とは
贔屓のチームの主力選手が海外に移籍する。野球に限らず、サッカーやバレー、ラグビーなど、多くのスポーツで見られるようになった現象だが、見送る側の心理には、ある種の共通点があるように思える。
愛娘を嫁に出す心境、というか。
親子関係が円満で、かつ伴侶となる男性に何の不満もない父親がいる一方で、関係はギクシャク、なおかつどうにも好きになれないオトコのもとに送り出さざるをえない父親もいるだろう。
だが、送り出す際の気持ちはどうであれ、きっと、娘のことが気になって仕方がないはずなのだ、どちらの父親も。
というわけで、阪神ファンのわたしとしては、藤浪晋太郎、どうにも気になる。登板機会を欠かさずテレビで観戦する、とまではいかないものの、ハイライトをチェックせずにはいられないし、細かい記録にも目を通したくなる。井川慶の時もそうだった。
それだけに、いや、大いに、心配になってくる。
シーズン開幕を目前にして、ニューヨーク・メッツは藤浪のマイナー降格を決定した。驚きの発表ではなかった。むしろ、「ああ、やっぱり」と感じられた方がほとんどだったのではないか。それぐらい、オープン戦の内容はひどかった。
なにしろ、1イニング……というか、0/3イニングに4つの四死球に3つの暴投をやらかしたかと思えば、次の試合でも1イニングに2つの暴投。これでは、どんな監督だって見切りをつける。というか、つけざるを得ない。つけなかったら、火の粉は自分に降りかかってくる。
たった一度ではあるが、阪神時代の藤浪には、彼と親しい虎バン記者の計らいで、おでんをつつきながらじっくり話を聞かせてもらったことがある。「頭のいい子だな」というのがそのときの印象だった。
当時の彼はまだ20代前半だったが、この世代のアスリートには珍しく、自分が知らない世界への好奇心が旺盛で、役に立つものであれば何でも取り入れようという姿勢がはっきりと現れていた。おそらくはメジャー降格を告げられたいまも、どうすれば情況を打開できるか、懸命に考えているに違いない。
“愛娘”のために、わたしも考える。というか、ここ数年、ずっと考えてきた。藤浪晋太郎はどうするべきなのか。なすべきことを考えるためには、まず、問題点を正確に早くしなければならない。藤浪晋太郎は、何が、あるいはどこが問題なのか。
再現性の低さ、だとわたしは思う。
前の試合では取れたストライクが、次の試合ではまったく入らない。前回は指にかかっていたボールが、今度は抜けまくる。使う側からすればそんな投手の起用はバクチでしかないし、残念ながら、他ならぬ藤浪自身が、投げて見なければその日の調子がわからない、といったところはあるように思える。
原因ははっきりしている。長すぎる手足、である。
アメリカ式の表記だと6フィート6インチ、メートル法に換算すると身長198.1cmの藤浪は、当然のことながらほとんどの日本人投手よりもリーチが長い。結果、180cmの選手であれば許容範囲になるレベルのズレが、より拡大された形で飛んで行くことになる。力投型でもある藤浪の場合、ズレ幅だけでなく、ズレが生じる頻度も高くなりがちだ。
では、どうするべきか。
まず考えられるのが、「ズレが生じてしまうなら、そのズレを少なくすればいい」というやり方である。右足1本で立った時のズレをなくす。左足の踏み出しと、踏み込む角度のズレをなくす。上腕の動きのズレを減らすために、可動域に制限を設ける──つまりどういうことかと言えば、体幹から筋肉まで、徹底的に強くしていこうという考え方である。
このやり方の成功者としてまず思い浮かぶのは、ダルビッシュである。高校時代、あるいはファイターズ時代の彼の写真を見てみると、いまとは比較にならないぐらい細い。身長は196cm。藤浪からすれば、そのままコピーすればいいような存在である。
とはいえ、阪神時代には藤浪自身がダルビッシュの教えを請うためにアメリカに渡ったこともあった。わたしが思いつくようなことを彼が思いつかないはずはない。
当然、藤浪も以前に比べれば筋肉の鎧で全身を固めてはいるのだろう。にもかかわらず、結果や内容が安定しないのはなぜか。何より、その投球動作からダルビッシュや大谷のような力感、安定感が伝わってこないのはなぜか。「まだ足りないから」か「体質的に無理だから」なのか。わたしは、その両方だと思う。
だとすると、次に考えられるのは“軟投派”への転身である。
コントロールに難ありというイメージがついてしまった藤浪だが、試合前のキャッチボールなどを見ている限り、きっちりと狙ったところに投げられている(プロならば当然のことでもあるのだが)。コントロールを乱しているのは、より速く、強いボールを投じたいという力みである。ならば、マウンドから投げる際のプライオリティを、100マイルの剛速球ではなく、再現性の高いスピードに落とす、というやり方は考えられないだろうか。
簡単なことではないのはわかっている。ボウリングでも、コントロールを重視しようとして軽いボールにしたり、投げる勢いを調整したりすると、かえっておかしくなってしまうことがある。藤浪の場合も、全力で投げた方がむしろ再現性は高い、ということはあるのかもしれない。
ただ、先発だけでなくリリーフも経験し、一度は好転する気配を見せたものの、結局はどこで投げても暴れ馬ぶりを抑えられない現状から判断すると、そろそろ根本的な改革に取り組まない限り、メジャーはおろか日本球界に復帰しても厳しい情況が待っているとしか思えない。
となると、一番手っとり早いというか、机上の空論でいくと明日にでもできそうなのは、以前から一部の識者が指摘していたように、メンタルを変えること、かもしれない。具体的にいうと、もっと無責任に、もっと自己中心的に。つまり、相手との勝負に心から楽しむ、と腹の底から思えるようになること。
彼の抜け球は、打者からすると危険極まりない存在であるだけでなく、打席における集中力を奪うという“効能”もある。以前、ヤクルトの監督を務めていた真中満さんから、「藤浪とあたるとそこから調子を崩すバッターが多くて」と聞いたことがある。
いつデッドボールをしでかすかわからないピッチャーなど、プロとして失格だという意見もあるだろう。自分に置き換えて考えてみる。明日から自分の性格なり考え方を変えろ、変えるしかないと言われて、果たして変えることができるかどうか。衝突よりは平穏を望みがちな人間が、第三者の目を気にせず突っ走れるか。
58歳には、もう無理だ。
藤浪は、4月12日で30歳になる。自分の30歳当時を振り返ってみれば、58歳時点の自分と比べてもあまり変わらないというか、ほぼ性格なり発想の骨格が固まりつつあった時期だという印象がある。つまり、変えるのは、動かすのは、決して簡単なことではない。
だから、途方に暮れる。
とかく、ファンやメディア、つまり第三者は自分の考えていることが当事者の考えていることより優れている、との思い込みに陥りがちだ。それがすべて間違っている、とまではいわないまでも、ほとんどの場合、他人が思いつくようなことはとうの昔に本人も気付いている。
そもそも、古今東西、親からたしなめられてあっさりと考えを翻しました、なんていう娘が、一体どれだけいるというのか。そして、たとえ親の意見が全面的に正しかったとしても、子供の耳には届かないことが珍しくない。
正直、24年の藤浪晋太郎はピンチ、それもけっこう深刻なピンチだとわたしは思う。おそらく、そのことは本人が一番よくわかっている。微調整か、大変革か、発想の転換か、それとも、いままでの道を貫き通すか。
親としては、どんな道であっても、それが成功へつながる道であることを、祈るばかりである。
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