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baseball2024.05.04

田中将大は、逆境を乗り越え、再び大舞台で輝けるか?

3年前、わたしは興奮していた。大喜びしていた。

『大げさではなく、日本の野球界にとってエポックメイキングな出来事ではないか。そんな気がしている。』

ちょうど3年前のいまごろ、田中将大が日本球界への復帰を決めたことについて、わたしがこのコラムに書いた文章である。

『それでも、肝心の日本球界に魅力がなければ、どれほどの好条件を提示されたところでマー君が首をタテに振ることはなかっただろう。

打たれる危険性をかいくぐることに快楽を覚えてきた超一流のピッチャーにとって、抑えられることがわかりきった打者との対決は退屈でしかない。だが、メジャーを抑えてきたピッチャーといえども、いまのソフトバンク打線を抑えるのは容易なことではない。

だから力を貸してくれ──わたしだったらそう言ってマー君を口説くし、実際、日本球界に関心を持ち続けたという彼にとっても、楽天を頂点に導くのが素晴らしく困難で魅力的なミッションだと映ったからこそ、オファーを受け入れたのではないかと思っている。

なので、個人的な願望としては、獅子奮迅の活躍をしつつ、それでもソフトバンクの牙城は崩せなかったといのうが、1年目の最高のシナリオなのかな、などとも思う。

田中将大を持ってしても、ソフトバンクは抑えられなかったという結果が出れば、日本を見るアメリカの目が変わる。すべてにおいてアメリカにはかなわないと思い込んでしまっている日本人の考えも変わる。

物事が一気に動き出しそうな気がする。』

たった3年前の原稿だというのに、あまりにも隔世の感がありすぎて、クラクラしてくる。あのころ、球界の頂点に君臨していたのはソフトバンクだった。誰も、オリックスが3連覇するなんて思っていなかった。

田中将大が、3年間で一度も2ケタ勝利できないだなんて、想像すらできなかった。いや、急速なレベルアップを遂げつつある日本球界が、田中にそれなりの洗礼を浴びせるだろう、浴びせてほしいとは思っていたが、まさか復帰後の通算成績が20勝32敗なんてことになろうとは、恥ずかしながら夢にも思わなかった。

1年目は凱旋した英雄の一挙手一投足を逐一取り上げていたメディアも、いまではすっかり熱を失った。地元・東北ならばいざ知らず、東京のメディアで田中の登板が大きく取り上げられることはなくなったし、もはや負けることがニュースではなくなってしまった

メジャーに移籍する直前の田中は、伝説的としか言いようのない成績を残している。28試合に登板して24勝0敗。おまけに一つ、セーブまでついている。まだ打者たちが人間の投げるボールしか打つことのできなかった時代、つまりバッティングマシーンなる、打撃の機会を激増させてくれる機械がなかった昭和ではない。高校時代から140キロ台の速球に慣れ、よりアスリートとしての能力を高めた打者たちがひしめく時代の、24勝0敗1セーブである。スポーツに「絶対」はない、とはよく言われる言葉だが、わたしが生きている間に13年の田中将大の成績の超えるピッチャーに出会うことはまず、ないだろう。

彼が完全に全盛期を過ぎ、もはやロートルの域に達していたというのであれば、まだ話はわかる。しかし、もしそうなのであれば、日本への復帰はヤンキースからの解雇という形を経ていただろう。

実際、日本球界復帰を果たしてからも、田中が深刻な故障を抱えている、という報道は出ていないし、自身の口からも語られていない。3年目の投球回数はチームで2番目となる139回三分の一だった。故障とまでは言えない、しかしベストのピッチングをするためには確実に邪魔となる“違和感”に悩まされている可能性はあるものの、3年間で12も負け越すとは、おそらく、本人も含めて誰も想像していなかったことだろう。

なぜこんなことになってしまったのか。

おそらく、その答を一番欲しているのは本人だろうし、それがわかれば、そもそもこんなことにはなっていない。ただ、個人的には環境の変化も無関係ではないのでは、という気がしている。

田中が24勝0敗1セーブというとてつもない成績の残したのは、13年のことだった。まだ東日本大震災の傷痕が各地に残るこの年、イーグルスは球団初となるリーグ制覇、日本シリーズ優勝をなし遂げている。

このシーズン終盤の仙台の雰囲気は、熱狂的な阪神ファンに慣れた人間にとっても、相当なインパクトがあった。球場のみならず、街、地域、いや、東北全体に祈りの気配が満ちていたというか、それこそ、直接対決するチームとそのファン以外のすべてが、イーグルスの勝利を願っているような、そんな雰囲気があった。

そんな空気の中で、田中は投げた。もちろん、重圧はあっただろうが、それ以上に、意気に感じるところも大きかったはずだ。そうでなくてもポテンシャルの高い男の、普段であれば出さない、いや、出せない領域の力まで絞り出させる周囲の空気が、それこそ神の領域に近い成績を残させたのではないかとわたしは見る。

この年限りでチームを離れた田中にとって、13年の東北の記憶は、最良であると同時に最新の記憶であり続けてきた。

新天地として選んだニューヨークでの生活は、それまでのものとはまったく違うものに感じられたことだろう。だが、ヤンキースというチームに対する恒常的な熱、注目度は、全米屈指と言えるぐらいに高い。数々の大舞台を経験してきた田中にとっては、13年の楽天同様、願ったり叶ったりの環境だったのかもしれない。

だとすると、戻ってきた古巣の雰囲気を、彼はどう感じたのだろう。


イーグルスの観客動員は、19年まで右肩上がりの上昇を続けてきた。プロ野球に参入した初年度の05年は97万7104人だった観衆は、13年で128万1087人、19年には182万1785人を記録し、福岡ソフトバンクホークス、北海道日本ハムファイターズに続くリーグ3位にまで上昇した。

だが、コロナで様相は一変した。

自粛期間が明けると、他の11球団すべてが順調に観客を取り戻していく中、イーグルスだけは、なぜか期待されたほどには客足が戻ってこなかった。平日のナイターでは空席が目立つようになり、23年の観客動員数は、12球団最低のレベルにまで落ち込んだ。


田中将大というピッチャーを、大舞台でこそ力を発揮する選手と定義するならば、寂しくなってしまった楽天モバイルパーク宮城は、彼の隠されたエネルギーまで引き出すことのできる舞台だろうか。

03年に18年ぶりのセ・リーグ優勝をなし遂げると、翌年、阪神ファンの──というかわたしの熱は、少しばかり落ち着いた。05年もそうだったし、チームが“アレンパ”という目標を掲げていなければ、今年もたぶん、ある種の満腹感を抱えながらシーズンを迎えていたことだろう。あまりにも悲願過ぎる優勝が、その後しばらくファンから熱と棘を奪ってしまうことは、わかる気がする。

そもそも、イーグルスの観客動員が落ち込んだのは、田中を含め、不甲斐ない戦いを続けた選手の側に原因があるのかもしれない。選手の側が不振の原因を観客に求めるなど許されることではないし、また、そんなことを口にする選手もいないだろう。

だが、田中は高校時代から甲子園の決勝を2度、いや、早稲田実との再試合を考えれば3試合も経験した、大舞台の申し子ともいうべき存在である。そして、野球に限らず、スポットライトの熱量と活躍の度合いに相関関係を感じさせる選手というのは、確実に存在する。

今年もまた、序盤のイーグルスは苦しい戦いが続いている。そして、明らかに阪神ファンよりは我慢強い東北のファンは、そんなチームを穏やかに見守っている(あくまでも阪神ファンの比較論において、だが)。

そして、24年の田中は、オープン戦3試合に登板し、往年の速球の威力こそ感じられなかったものの、順調に調整は進んでいると見られていた。ところが、開幕直前に2軍に落ちると、そのまま1軍復帰のないままゴールデンウィークを迎えてしまった。

3年前、彼の日本球界復帰に興奮していたわたしは、いま、彼の今後に懸念を抱きつつも、逆境を乗り越える姿を見たい、そんな両面の感情を持ち合わせている。

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