小野塚勇人(劇団EXILE)│「あのときサッカーから逃げてしまったから、役者は絶対にやめない」【前編】
劇団EXILEのメンバーとして舞台、CM、映画、TVドラマなどで活躍する小野塚勇人さん。小学生のころからサッカーに打ち込み、名門・市立船橋高校サッカー部に所属した経験を持つ。高校1年時に「プロになる」夢を諦めてしまうが、彼の人生はサッカー抜きには語れない。「サッカー選手」を目指し、その後は「役者」の道へ。彼がこれまで辿ってきた“夢”への道のりについて、話を聞いた。
■とにかく負けず嫌いだった
──サッカーを始めたきっかけを教えてください。
小学校3年生くらいのときに、近所の公園で2~3つ年上のお兄さんたちがサッカーをやっていて。見ていたら「やる?」って声を掛けてくれたんです。そのときに「センスあるじゃん!」みたいに褒めてもらえたのが、すごくうれしくて。「もっと褒められたい」とか、「足が速くなってモテたい」みたいな、子どもらしい思いをきっかけに、そのまま地区のサッカーチームに入りました。
──チームでサッカーをするようになって、いかがでしたか?
僕は当時ドッジボールが得意だったこともあって、キーパーをメインでやってました。最初は楽しかったんですけど……、「どうせやるならもっと勝ちたい」と思って別のサッカーチームにも並行して通うようになりました。そこには、Jリーグのジュニアや強いクラブチームの子も結構集まっていて。年下にも、自分よりはるかにうまい人たちばっかりいたんですよ。それで「もっと上を目指したい」と思って、小学校5年生のころにはクラブチームのセレクションを受けました。クラブチームに入れてからは、僕自身ずっとやりたいと思っていたフォワードをメインでやるようになりました。
──小学生のころから、強い向上心を持って取り組んでいたのですね。
とにかく負けず嫌いだったんですよね。ほかの人に負けたくなくて毎朝5時くらいに起きて自分で朝練をしたり、学校の休み時間もサッカーばかりやっていて。チームの練習後も、家の近くの公園で自主練をしてました。クラブチームにリフティングを3000回くらいできるチームメイトがいて、「俺もやってやる」と思って猛練習したり。反骨心と凝り性が合わさって、とことん突き詰めてました。当時はとにかくサッカーにのめり込んでいましたね。
それに、努力をしたぶんだけ上達するっていうのも面白くて。目標に向かって努力を続けていると、ここぞというときに普段以上のものを発揮できることがあったりするんですよね。
──実際に、小野塚さんが普段以上の力を発揮できたのはどんなときでしたか?
小学生時代にクラブチームのセレクションを受けたときでした。セレクションの3ヶ月前に体験の練習会に参加したとき、周りのみんながすごすぎて「バケモノみたいなやつばっかりだな」と思ったんですよ。そのまま緊張のあまりお腹が痛くなって、トイレにこもるくらい衝撃で。でもそれと同時に「絶対ここに入り込んでやるぞ」という気持ちになりました。それからめちゃくちゃ練習して、セレクション本番では練習じゃ出ないようなプレーができたりして。そんな体験を小学生のころにできたのは大きかったですね。
■プロ選手からもらった言葉で、サッカー観が変わった
──その後中学では、どうサッカーを続けていこうと思ったのですが?
小学生のクラブチームでは、結局Aチームに上がることができなくて。でも、一緒にBチームでプレーしていたライバルが、最後の最後にAに上がったんですよ。それがめちゃくちゃ悔しくて、「中学ではもっとうまくなって見返してやろう」と。それでジェフ(ジェフユナイテッド市原・千葉)のジュニアユースを受けたんですけど、全然力を発揮できなくって落ちてしまって。どうしようかと考えていたときに、当時ジェフで活躍していた羽生直剛選手に、偶然お話を聞ける機会があったんです。それで「ジェフのジュニアユースに落ちちゃったんですけど、どこに入ればいいですか」みたいなことを聞いたら、「『どこのチームに入るか』じゃなくて、大切なのは『そのチームで自分が何をするか』。だから、自分がどうやって努力するかだけを考えたほうがいいよ」と言っていただきました。子どもながらに「確かにそうだ」って、電流が走りました。
それまでは、試合に勝てないときなんかに「どうせあそこのクラブチームは強いから」みたいに、ちょっと卑屈になっていたことがあったんです。でも、羽生選手の言葉のおかげで「その劣等感は必要ないんだ」って気付かされました。まだ12歳だった自分に、まっすぐ対等に言葉をかけてくださったことにもすごく感謝しています。間違いなく、僕のサッカー観が変わった瞬間でしたね。
──それからはまた新たな視点でチームを探すようになったのですか?
小学校5年生のときに全国高校サッカー選手権の決勝戦で市船(市立船橋高校)の試合を見てから、「自分も将来入りたい」と思って、“市船に一番近いチーム”を探しました。それで見つけたのが、ヴィヴァイオ船橋というサッカークラブ。ヴィヴァイオと同じグラウンドを市船が使うこともあったので、これはアピールできるぞ、と思ったんです。ヴィヴァイオにもセレクションがあったんですけど、ジェフのときとは全然違って本番で爆発的なプレーができて。「自分が本当に入るべきだったのはヴィヴァイオだったんだな」と、なんだか縁を感じました。
■「努力してる」という自覚はなかった
(高校時代に履いていたスパイク)
──中学生時代はどうサッカーに取り組んでいましたか?
中学では、個人技がめちゃくちゃ伸びました。ヴィヴァイオがドリブル主体のチームだったので、基本的に試合中はパス禁止だったんですよ。コーナーキックのときも、ヘディングでクリアするんじゃなくて「胸トラップしてドリブルしろ」って。ピーって鳴ったらドリブルして、周りのみんなはとにかくついていって……という感じで、小学校低学年のころに戻ったような感覚でした(笑)。でも、純粋に面白かったし、ドリブルの技術は尋常じゃないくらい伸びました。チームとしても、関東大会に出られたり、最終的には県で5本の指に入るくらいには勝ち進めました。
──中学生のころの原動力も、“負けず嫌い”でしたか?
そうですね。時間さえあれば自主練をしていて、チームの練習がないときも公園でずっとボールを蹴ってました。フェンスをゴールに見立てて練習をしていたんですけど、狙って蹴っていた左下だけフェンスがボロボロになっていたくらい。「負けたくない」っていう気持ちと、あとは純粋にサッカーが楽しくて夢中になっていたので、「努力してる」という自覚はありませんでした。今になって思うんですけど、大人になってから、あれほどの競争心や反骨心を持つことってなかなかないんですよね。やっぱり、あの臨場感や緊張感、それから興奮はスポーツならではで、舞台で演技をするときともまた違うんです。
──その後、市立船橋高校へはどういう流れで入ることができたのでしょうか?
ヴィヴァイオのチームメイトには、関東や県のトレセンメンバーに選ばれるような人が何人もいたんですけど、僕は一度も選ばれたことがなくて。でも、チームで培ったものを活かしてなんとか市船に入ってやる、という思いを持ち続けてました。それで市船を受けにいったんですけど、5日間のセレクションのなかで、3日目まではなかなか良い結果が出ませんでした。そのときふと、「俺、このまま入れなかったら高校どうするんだろう」って考えたんですよね。当時はサッカーのことで頭がいっぱいで、本当に後先考えてなかったんです。そんなことが頭をよぎったのと同時に、県トレや関トレ勢に絶対負けたくないっていう気持ちが燃え上がって、何だか開き直っちゃって。親に「市船入れなかったら高校行かないで働くから」って伝えました。そしたら肩の力が抜けたのか、4日目には生涯でいちばん良いプレーができたんですよね。ドリブルでスイスイとかわして、面白いくらいにシュートが決まる。そのまま監督に呼ばれて、市船に入れることになりました。
──高校のセレクションでも、ここぞというときに爆発的なプレーができたのですね。
そうなんです。結局、ヴィヴァイオからは同じ年に5人くらい市船に進んだんですけど、僕以外はみんなトレセンメンバーだったんですよ。みんな、一緒にプレーしていて天才的なセンスを感じるような人ばかり。でも、僕がセレクションに受かったことは、ある意味それを努力で補えることの証明になったと思うんです。ひとつひとつ着実に積み重ねてレベルアップしていったら、本番で良いプレーができて結果につながる、ということを感じられて本当によかったと思います。僕の人生に“飛び級”はないんだなって。
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後編
では、憧れの市立船橋高校で葛藤の末にサッカーを諦めてしまったという経験や、役者の道へと進むことになった経緯、そして現在部活動に打ち込む学生のみなさんへのメッセージをお届けします。
■プロフィール
小野塚勇人
俳優。1993年生まれ。千葉県出身。劇団EXILEメンバー。2012年劇団EXILEに加入。舞台、映画、TVドラマ、CMなどで幅広く活躍中。
映画「東京ワイン会ピープル」が10月4日公開予定。
https://twitter.com/Hayato_Onozuka