高橋礼華は、土壇場で逆転する日本人選手の象徴かもしれない。
セットカウント1-1で迎えたファイナル・セット。先に21点をあげれば、悲願の金メダルが待っている。
勝つのは日本か、デンマークか。リオデジャネイロ五輪、バドミントン女子ダブルスの決勝は両者相譲らぬまま、クライマックスを迎えようとしていた。
息詰まる雰囲気の中、両者はコツコツとポイントを重ねる。日本が離そうとすればデンマークが追いすがり、デンマークが抜け出そうとすると日本がストップをかける。共にポイントが四捨五入すれば20点となる最終盤に至っても、展開はまったくの互角だった。
だが、16-16となったところで、局面は大きく動いた。デンマーク・ペアが立て続けに3ポイントを上げ、金メダルまであと2ポイントと迫ったのである。
経験者に言わせれば、バドミントンにおける最終セット、最終盤に3ポイント差は、ほとんど絶望的とも言える大差だという。まして、デンマーク・ペアがリードを奪ったのは、五輪の決勝という超大舞台である。
テレビ画面にかじりついていたわたしは、正直、諦めた。バドミントンに限らず、ああいう大一番で、土壇場からの逆転をする日本選手を観た記憶が、経験が、ほとんどなかったからである。
だが、追い詰められたはずの高橋礼華は違った。彼女の中には、土壇場で逆転する日本人選手の強烈な印象が刻まれていた。
しかも、その記憶は前夜に刻まれたばかりだった。
「選手村でテレビを見てたら、たまたま女子レスリングの決勝をやってたんです。そこで伊調さんの大逆転勝ちを見て、明日はわたしたちもこんな風に勝てたら凄いね、とか言ってたんですよ、松友と」
試合終了5秒前に試合をひっくり返した伊調馨の劇的な勝ちっぷりを、日本ペアは思い出していた。
「だから、いまから振り返っても不思議なぐらい、ああ、ダメだ……なんて気持ちはなかったですね。常識的に考えたら相当に厳しい状況だし、わたしがお客さんだったら、もう決まったなって思ってたでしょうけど」
冷静さを失わなかった日本ペアは、まず1点を返した。17-19。ここで、高橋は相手選手が浮かべたある表情を見逃さなかった。
「苦笑いというか……ちょっと引きつったように見えたんです。彼女たちとは何回も戦ってきてるし、そんな表情を浮かべる選手じゃないことも知ってる。なのに、あの表情。あれ? ひょっとしたらだいぶ精神的に追い詰められてきてるのかなって」
日本はさらに1点を返した。18-19。
「流れを止めないように。それだけを考えてました。テレビで見てた友達に言わせると、わたしの顔が映った瞬間、あ、これは勝てる時の顔してるって思ったらしいです」
19-19。日本は追いつき、デンマークは追いつかれた。
「前衛の松友が凄く冴えてきてたんで、わたしはサーブをしっかり入れる。それだけを考えてました」
3ポイントを連続で失った直後の4ポイント連取。20-19とした日本は、ついにマッチポイントを握った。
会場では、そして遠く離れた日本では、史上初の金メダル獲得を目前に、多くの人が我を忘れるほどの興奮に包まれていたことだろう。あと1ポイントで、あとたった1ポイントで、日本女子バドミントン界の悲願が叶う。
だが、サーブに入る高橋はまったく違うことを考えていた。
「20点目の時は、何となく予感がしてたんです。ここを落としたら負けそうって。でも、そこを取れた。だから、最後のサーブの時は、21点目を取るんじゃなくて、20-20になることを想定して入れました。一度追いつかせておいて、そのあと突き放して勝つ。そんなイメージだったんです」
数秒後、精密機械のように緻密で冴え渡っていた高橋の意識は、突如として凄まじい混乱の渦に包まれた。
決めるつもりのなかったショットに対するリターンを、デンマーク選手がネットにかけたのである。
「あまりにも想定外すぎて……わけがわかんなくなって倒れちゃいました。ホントはもっと、格好いいガッツポーズだってあったのに」
──そんな話を、先日、ラジオの対談番組で引退を表明したばかりの高橋礼華さんから聞いた。
聞きながら、鳥肌が立ちまくりだった。ここで書き切れないし、オンエアでもだいぶカットした部分があったのだが、たとえば決勝の相手がデンマーク・ペアに決まった時の気持ちだとか、表彰式での出来事だとか、スポーツライターとしては宝の山としかいいようなないエピソードのオンパレードだった。
スポーツライターを生業とするもの、志した者……というか、少なくともわたしにとって、故・山際淳司さんが雑誌『Number』の創刊号で書かれた『江夏の21球』は非常に大きな意味を持っている。
残念ながら、山際さんとお会いする機会は持てなかったが、当時の状況を知る文春のスタッフから、江夏さんへのインタビューが終わった直後、取材陣全員が興奮状態に陥っていたと聞いたことがある。
凄い話、凄いエピソードに出くわした衝撃で──。
今回、話をうかがったのは高橋さんただ一人。これに松友さん、さらにはデンマーク・ペアの証言が取れれば、途轍もなく読みごたえのあるノンフィクションができそうな気がする。
皆さん、どう思います?
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