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running2021.02.22

サニ・ブラウンを“日本陸上史上最高の選手”へと想いを馳せる理由。

自分でもおよそトンチンカンで意味不明だということはわかってます。

でも、かれこれ40年以上もマニアをやってきた人間の本能が、耳元で囁くのです。

「これは来るで、サニ・ブラウン。」

たまにこのサイトを覗くだけという一般的読者の方はご存じないでしょうが、実はこの記事を書いているカネコタツヒトというライター、熱狂的な“プーマ・マニア”でありまして。

どれほどマニアかというと、プーマを履いているだけでその選手のことがオートマチックに好きになってしまうほどのマニアなのです。

なぜそんな変態的発想に行き着いたかといえば、ま、簡単に言ってしまうと、プーマがお兄ちゃんでアディダスが弟だから、でしょうか。ルドルフ・ダスラーがお兄ちゃんでアドルフ・ダスラーが弟。最初は2人で仲良く靴屋さんを始め、これが大評判となったのですが、やがて兄弟は仲違いし、というか互いに罵詈雑言をぶつけあう関係になり、結果、2つのシューズメーカーが生まれました。

販売を担当していたルドルフ・ダスラー派が集まって立ち上げられたプーマと、製造担当のアドルフ・ダスラー派が集まって作られたアディダス。同じ街の中に、川を挟んで。

第三者からすれば、顔もそっくりで、なんなら好きになる女性のタイプも似ていたらしいこの兄弟ですが、袂をわかってからのビジネス手法は、ずいぶんと対照的でした。

例えるならば、プーマがJu-87でアディダスがB-29って、ミリタリーおたく以外にはなんの例えにもなっていないので補足しますが、Ju-87というのは第二次大戦初期に大暴れしたドイツ軍の急降下爆撃機で、B-29は大戦の趨勢を決定づけたアメリカ空軍の超大型爆撃機のこと。つまり、アディダスのビジネスが絨毯爆撃というか、片っ端からみんなアディダスを履かせようとしたやり方だったのに対し、プーマはピンポイント型、スーパースター一人をつかまえるというやり方でした。

もちろん、ルドルフさんだって資金があれば弟アドルフと同じやり方をとりたかったでしょうが、設立からしばらくすると、両者の間には歴然かつ圧倒的な規模の違いが生じていました。そこが、弟にいろんな面で追い抜かれていったライターとしては妙な親近感を抱いてしまうところなのですが、ともあれ、ルドルフさんが相当に悔しい思いをしたことは間違いない。

財力では弟の会社にかなわない。でも、絶対に負けたくはない。では、どうするか。たった一人でその他大勢を圧倒できるようなスーパースターをつかまえるしかない。というわけで、スターのタマゴを見出すプーマ社の勘は、時にアディダスをたじろがせるまでになっていきます。

プーマの名前をドイツ、ドイツ語圏を越えて世界に轟かせたのは、64年の東京五輪でした。4年前のローマ大会で金メダルを獲得したエチオピアのアベベ・ビキラの1本釣りに成功。ローマを裸足で駆け抜けて金メダルを取った英雄が、東京ではプーマのシューズを履いて走った──と世界中に伝えられました(アベベ自身は、シューズの出来としては日本で試着したオニツカ・タイガーのものがお気に入りだったようですが)。

これで味をしめたのか、プーマの1本釣の勘は冴えを増します。東京五輪の2年後に開催されたイングランドW杯では、世界的には無名の存在に近かったポルトガルの黒人ストライカー、エウセビオと契約したところ、大会に入ると大ブレークして得点王を獲得。

4年後のメキシコW杯では、1次リーグのイングランド戦ではアディダスを履いてプレーしていたペレを強引に口説き落とし、決勝のイタリア戦ではプーマを履かせることに成功します。キングが愛用したスパイク、というイメージは、その後のプーマにたとえようもないほど大きなプラスをもたらしました。

74年のクライフ、78年のケンペス、86年のマラドーナ……と、使用人数ではアディダスに遠く及ばずとも、プーマが目をつけた若者たちは、次々と世界的な名声を獲得していきました(ちなみに、プーマの象徴ともいえる存在となったマラドーナも、アルヘンティノス・ジュニオルスでデビューした15歳の時は、アディダスを履いていました)。

21世紀に入り、次第に新興メーカーに圧倒されていった感のあったプーマですが、斜陽のイメージを一変させたのは、やはり伝統の一本釣りでした。

ウサイン・ボルト。

財力では他のメーカーにはかなわない。だから、限られた資金を一点に集中させるというやり方は、リスクが大きなギャンブルでもあります。アメリカ人ではない、ジャマイカ人の長身アスリートへの一点賭けは、しかし、見事に成功しました。

いまや、斜陽どころか、お洒落なメーカーとしても認知されつつあるプーマですが、これと睨んだ選手へのピンポイント爆撃は健在です。長くナイキを履いていたネイマールの引き抜きは、スポーツ業界に衝撃を与えました。

そして、そんなメーカーが、サニ・ブラウンを選んだ。

陸上男子100メートル日本記録保持者のサニブラウンは、来夏の東京五輪に向け「もちろん金メダルを目指す。金メダルを日本にもたらしたい」とIOCのインターネットテレビ「五輪チャンネル」で力強く宣言していました。

フロリダ大から練習拠点をフロリダ州ジャクソンビルにある「タンブルウィード・トラック・クラブ」に変更し、同クラブではかつて指導を受けたレイダー氏と再タッグを組んでいます。19年世界選手権男子200メートル銀メダルのドグラス(25=カナダ)ら強豪選手と一緒に練習を行っています。

トップランカーと過ごす日々は「プロである自分」を自覚させられ、もっと学んでいかないと感じさせられました。

「自分がわからないことを聞いても答えてくれて、陸上以外でもお世話になっています。日々練習に取り組む姿勢、私生活もそうですけど、まだまだ全然やれることがあったとわかりました。トップ選手と練習することで見えてくるところがあるんだなと。1段階、2段階とレベルアップしているという感じです。」

プーマを愛し、その眼力を信じるマニアからすると、ゆえに、彼が日本陸上史上最高の頂きに到達するのでは、と期待せずにはいられないのです。

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