長冨浩志(元広島、日ハム、ダイエーホークス)が歩んだ流転の野球人生「独立リーグで学んだ、子供たちに適した指導法」【インタビュー後編】
[前編
長冨浩志が歩んだ流転の野球人生「中継ぎとして仕事に徹した先にー」
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広島東洋カープにドラフト1位で入団した1986年、ルーキーながら10勝(2敗)を挙げ、セ・リーグ新人王を獲得してチームの優勝に大きく貢献した長冨浩志氏。その後も日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)と渡り歩き、16年ものキャリアをプロの世界で築き上げた。現在は、スポーツデポの野球アドバイザーとして活躍している。
インタビュー後編となる今回は、ダイエー時代の王貞治監督との秘話や引退後の指導者として活動した際のエピソード、そして使用していた野球用品について伺った。
自ら選手たちに歩み寄ってくれた。チームを「常勝軍団」に変えた王監督の人間力
―長冨さんは日本ハムで中継ぎとして活躍されたあと、1998年にダイエーに移籍されました。城島健司さんとバッテリーを組むことが多かったと思いますが、当時の城島さんの印象はいかがでしたか?
長冨:僕がダイエーに移籍した時は、城島はまだ若手のペーペーだったんですよ。なので、今ソフトバンク監督の工藤公康や武田一浩(野球解説者)らベテラン組とバッテリーを組ませるようにして、みんなで配球を教えていましたね。
実際に試合では城島が出すサインには首を振らず言う通りに投げて、ベンチに戻ったら「あそこであの配球は違うぞ」って注意をする、という感じで毎回やっていました。もともと打撃はすごかったですし、肩も強かったので、配球を覚えていったらメキメキ成長していきましたね。それで野球って、捕手が育つとチームも勝つんですよ(笑)。
―「常勝チームに名捕手あり!」ですね(笑)。当時は王監督でしたが、何か思い出深いエピソードはありますか?
長冨:驚きのエピソードがあります。ある時、試合が終わってみんなシャワーを浴びていたら、いきなり王監督が入ってきたんですよ。そもそも、監督が選手と一緒にお風呂に入るなんてありえませんからね(笑)。
それで自分から僕たちに歩み寄ってきてくれて、いろんな話をしてくれたんです。僕らが「王監督なら、たくさんトロフィー持ってるんでしょうね」って言ったら、「そんなの全部みんなにあげちゃったよ〜」みたいな(笑)。もうそんな感じでざっくばらんに公私の話をしてくれたんです。
そうして王監督と打ち解けたてから、「この人のために頑張ろう」と思って、選手たちみんな監督の指示通りにそれぞれの役割を全うしました。すると全員に責任感が生まれて、1999年にリーグ優勝と日本一を達成しちゃったんですよね(笑)。それから常勝軍団になっていきました。
―監督と選手の距離感が縮まったことで、チームに団結力が生まれたんですね。長冨さんは王監督からの信頼が厚かったと聞きますし。
長冨:そうらしいですね(笑)。まぁ僕自身も監督には絶対の信頼を置いていたので、2002年のシーズン後に「若い子に譲ってくれないか?」って直接電話をいただいたからこそ、きっぱりと引退してコーチになる決断ができたんです。
プロの世界でのコーチングではダメ。独立リーグに行って学んだ、少年野球に適した指導法
―そうだったんですね!信頼関係がいかに素晴らしいものだったかが伺えます。コーチになってからはどのようなことを重要視されていましたか?
長冨:自分の経験どうこうじゃなく、まずその選手の体の動きを見てから指導するように心がけていました。それによって、どういう投球フォームにしたらいいのか、どういう野球をさせたらいいのかっていうのを考えていったんです。
僕は2軍の投手コーチだったので、若い選手がを受け持つことが多かったですね。なので体力面や基礎の部分を中心に、一人前にするための育成をしていきました。
―教えていて思い出深い選手はいましたか?
長冨:ソフトバンクでは最後の2006年シーズンに、高校生から入ったばかりの投手を3人預かったんですね。ですが、同年の秋季キャンプの時に来年はコーチとして契約しないことを告げられたんです。
その後、その指導していた3人を集めて「一人前にしてやれなくてごめんな。これからも引き続き頑張ってくれや」って最後に言いました。もう我慢できずに泣いてしまいましたね。その年に3人とも1軍の舞台に送ってあげることができなかったので、悔しい気持ちと、申し訳ない気持ちがごっちゃになって。
―本当にその3人の投手に対して熱心に指導されていたのでしょうね。その後は石川ミリオンスターズに行って投手コーチを務めていらっしゃいましたが、なぜ独立リーグに?
長冨:たまたま週刊ベースボールという雑誌を見た時に、四国にはすでに独立リーグはありましたが、北陸にも同リーグができるという記事が掲載されていたんです。それが石川ミリオンスターズだった。加えて「指導者募集」と書いてあったので、すぐに連絡しましたね。
それに監督が西武ライオンズや阪神タイガースで活躍された金森栄治さんで、もともと少し面識がったということもあり、僕を投手コーチとして快く受け入れてくださったんです。
―そうだったんですね。ただ、プロと独立リーグではだいぶ環境が違うと思うのですが、実際に入ってみていかがでしたか?
長冨:確かに全然違います。まず、これはどこのチームも同じなのですが、野球で中途半端に終わった選手たちが「ちょっとプロを目指してやってみようか」っていうスタンスでやっている人が正直なところ多いんですよね。
僕がこれまでプロの世界で教えていたように指導をしても、全然わからないんです。例えば、「ちょっと体重を後ろに残しなさい」って言っても、「はい?」みたいな(笑)。
だからもっと分かりやすく噛み砕いて具体的に説明するようにしたんです。教えていく中で、僕自身もいろんな角度からアプローチすることを学べたので、すごく勉強になりました。それが今、野球アドバイザーとしての仕事につながっているんだと思いますね。
“間”があるスポーツ。次のプレーを予測しながら楽しんで。長冨浩志の野球のススメ
―指導者として、独立リーグでの経験は相当大きかったんですね。最後に野球用品について伺いたいのですが、現役時代はどこのメーカーを使っていたんですか?
長冨:僕はアシックスですね。僕らの時代はまだ野球用品の米ブランド「ローリングス」とライセンス契約をしていました。(2012年に契約終了)
ただ、プロ1年目はメーカーと契約できない決まりなので、ミズノさんなどいろんなメーカーの方が「使ってみてください」ってグラブを提供してくれましたね。2年目から引退まではずっとアシックスです。
―プロ1年目は契約できないんですね。グラブにこだわりはありました?
長冨:僕は投手なのでそこまでこだわりはありませんでしたが、強いて言えばウェブと色くらいですかね。
―色は何色にしていたんですか?
長冨:広島時代はアンダーシャツが赤だったので、特徴を出さないために、あえてグラブも赤にしていました。
というのも、投手は誰しも投球フォームや投げる前の動作に癖がありますよね。はじめは指カバーも付けてなかったので、指の動きだけでどの球種を投げるのか、牽制するのかどうかを見抜かれていたんですよ。相手チームの打者や走者、スコアラーまで全員がいろんな角度から細かく見ているので、その癖を見抜かれないように身に付けているモノの色を同じにしたり、指カバーを付けるようにしたんです。じゃないと簡単に次の行動を見極められてしまうので。
―なるほど。そのお話を聞くだけでも本当にプロの世界の厳しさを感じます。スパイクはいかがですか?
長冨:昔はスパイクの歯を交換できる革底製のスパイクが主流だったんですけど、僕はあまり重いのは好きではなかったので、普通のソールにしてもらっていました。それに足首もそんなに強くなかったので、ハイカットにしたりとか。
あとは球場によってマウンドの傾斜が違うので、投げるマウンドの高さによってソールを変えたりしていましたね。
―やはり投手としてはマウンドの傾斜や硬さに対応することは大事ですよね。では、そういったこだわりや知識を踏まえて、現在、野球アドバイザーとして野球用品の選ぶポイントをどのようにアドバイスしているのですか?
長冨:うちのお店には草野球をしている人や子供たちがいらっしゃるんですね。基本的に何を選べばいいのか分からない方が多いのですが、特に子供たちはグラブをはめて、硬いのを嫌がったり、サイズ感をすごく気にするんです。
なので「硬いのは柔らかくしてあげられるから気にしないでください」って言って説得します。サイズに関しては、グラブはポジションによって、また手の大きさや体の大きさ、学年によって適切な大きさがあるので、そこを確認した上でその子に合ったグラブを紹介していますね。
バットも、今の体の大きさにぴったりな方がいいのか、あるいは2〜3年後を目処に使いたいのかを聞いて、適したバットを勧めています。
それに野球用品のことじゃなくても、プレーの面で悩んでいる子に対してアドバイスもしているので、もし何かあれば気軽に来店してほしいと思いますね。
―ありがとうございます。では、これから野球を始めてみたいと考えている方に向けてメッセージをお願いします。
長冨:野球は間があるスポーツですから、サッカーのように目まぐるしく展開が切り替わるわけではないので、若い子からすれば面白みに欠けるかもしれません。ですが、みんなで盛り上がれるっていうことに関しては、やるにしても、観るにしても、本当に楽しめるスポーツだと思うんです。
それに「この場面でこうしたら、こうなるな」って、予測をしながらできるスポーツでもあるので、その辺も楽しみながらプレーしてみてほしいですね。
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