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baseball2018.10.04

長冨浩志(元広島、日ハム、ダイエーホークス)が歩んだ流転の野球人生「中継ぎとして仕事に徹した先にー」【インタビュー前編】

2016年にチームとして25年ぶりのリーグ優勝を果たし、今シーズン球団初の3連覇を達成した広島東洋カープ。若手の成長により、今や「常勝軍団」へと進化を遂げたが、北別府学氏・大野豊氏・川口和久氏らがいた1980年代前半から中盤においても「勝って当たり前」の時代であった。

その3本柱とともに、チームの投手陣を支えた投手がいる。長冨浩志氏だ。ルーキーイヤーの1986年、10勝(2敗)を挙げてセ・リーグ新人王を獲得。同年のリーグ優勝に大きく貢献した。しかし、華々しいスタートを切った長冨氏でも、その野球人生では何度も困難に直面している。インタビュー前編となる今回は、そんな長冨氏の過去を振り返るとともに、幾度も壁を乗り越えた際のエピソードを伺った。


諦めずに努力し続ければ、プロにだって行ける。一度野球を諦めた男が夢を叶えるまで

まず、野球を始めたきっかけを教えてください。

長冨:親父が野球をやっていたので、1つ下の弟と一緒に「3人で野球始めようか」って言われたのがきっかけで、小学2年生から始めました。僕自身、小さい頃から体が弱かったので、体を強くするためにも何かしら運動をさせたかった、という親父の気持ちもあったんだと思いますね。

そうだったんですね。千葉日大一高に進学してからは、エースで4番打者として活躍されました。

長冨:はい。思い出深いのは高校3年時の1979年。当時は僕を含めて3年生が3人しかいなくて、2年生中心のチームだったんですね。でも、その年の甲子園千葉県予選で同校の最高記録(1978年まではベスト8)を塗り替えてベスト4まで勝ち進めたんですよ。まぁクジ運もあったとは思いますけどね(笑)。

ただ、準決勝で習志野高校相手に0-10でコールド負けしちゃったんです。その時、同じ高校生相手に10点も取られているようでは、この先野球を続けても成功しないなと。もう野球は高校で辞めようと思ったんです。なので大学野球のセレクションは受けませんでした。

大学にはどこかに推薦で入れればいいなと思っていたんですけど、全部落ちちゃったんですよね(笑)。それから2次募集で入れる大学を探して、国士舘大学が候補に挙がったので受けることにしたんです。

その時に親父から「大学でも野球続けてみないか?」って言われたんですね。というのも、昔って、大学で野球をやってる方が大手企業に就職しやすかったんですよ。だから「しょうがねぇな」って(笑)。それで国士舘大学に進学してからも野球を続けることにしたんです。

なるほど。大学4年時の1983年にはロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)からドラフト3位指名を受けていましたが、なぜ断って社会人野球に進む選択をしたのでしょう?

長冨:大学3年の時から電電関東(2年目からNTT関東)さんに誘われていたんですよ。先輩も入社してましたし、僕の同期からも「一緒に入ろう」って言われていたということもあったので。

それに3位指名だったので、社会人で2年頑張ったらどこかのチームから1位で指名してもらえるんじゃないか、という期待感もあったんですね。ロッテオリオンズさんからは熱心に誘っていただいたんですけど、お断りして社会人野球に進むことにしたんです。

それで期待通りに、2年後の1985年に広島から1位で指名してもらうことができたと。

長冨:はい。広島から指名されるのは分かってはいたんですけど、でも実際に名前が呼ばれるまでは不安でしたね。記者会見場で待っていて、自分の名前が出た瞬間はホッとしました。

その時、思ったんです。高校時代に習志野高校からバンバン打たれて、「もう無理やな」って一度は野球を諦めましたけど、大学でも社会人でも指名していただいて、「頑張ったらプロに行けるんだ」って。「諦めずに努力し続ければ、夢の舞台に上がれるんだ」って。そんな気持ちになったことを、今でも鮮明に覚えています。


「調子は悪くないのに、なぜか勝てない…」1年目に新人王獲得も、思わぬ形でハマった2年目のジンクス

―広島に入団した1986年には、1年目にして10勝(2敗)を挙げてセ・リーグ新人王を獲得されましたね。

長冨:そうですね。まぁ当時の広島って、めちゃくちゃいい投手ばかりいたんですよ。北別府学さん、大野豊さん、川口和久さんの3本柱がいて、打者も含めて他にもいい選手がズラッと揃っていましたから。入った当初は「ここで競争するのは大変だな」って思いながら練習していましたね。

ただその中でも自分の球には自信があったので、開幕からローテーションで投げさせてもらえるかなっていう思いはあったんです。でも実際に開幕してみたら、先発どころか中継ぎで起用されて、しかも敗戦処理ばかり。だからちょっとストレスが溜まってしまって、ヘッドコーチがマウンドに来た時に「つまんないです」って言っちゃったんですよ(笑)。

え、本当ですか!?(笑)。

長冨:めちゃくちゃアホでしょ?(笑)。今思うとありえませんけど、当時は若かったし、プライドもあったんでしょうね。

まぁ当時は投手王国でしたから、いい先発投手はたくさんいたでしょうからね。実際にプロのマウンドで投げた時は、アマチュア時代と比べて、やはりレベルの差は感じました?

長冨:正直、最初は「やりやすいな」っていう印象でした。社会人までは金属バットだったので、芯に当たらなくてもスタンドまで持っていかれる、ということがなくなりましたからね。

それに僕自身、当時は150kmを超える真っ直ぐを投げられましたし、加えて右打者にはスライダー、左打者にはフォークを投げれば抑えられる自信があったので、1年目は恐怖心なく投げ続けられました。

豪速球もあって、ルーキーとしてもマウンド度胸が抜群だったんですね。2年目はいかがですか?よく「2年目のジンクス」と言われますが。

長冨:そんなジンクスなんてないと思っていました。2年目も開幕4連勝して、「全然楽勝やんけ!」っていう感じだったので(笑)。

それで5試合目も勝利目前だったんですよ。9回2死2塁の場面で、ボテボテのセカンドゴロを打たせたんです。「よっしゃ!5連勝やん」って思った瞬間、セカンドがトンネルしてしまって…。そのエラーで同点に追いつかれて、延長で負けちゃったんです。それ以降、その年は1試合も勝つことができませんでした。

なかなか気持ちを切り替えることができなかった。

長冨:はい。ずっとモヤモヤしてましたね。調子は悪くないのに、なぜか勝てない。そのうち打たれだしてから、一気に崩れていきました。

気持ちを切り替えられたのはいつ頃ですか?

長冨:プロ4年目ですね。3年目はちょっと肘を壊してしまったので。

立ち直れたきっかけというのは?

長冨:悔しさです。やはり勝てなくなると、周りからいろいろと言われるんですよね。それで「その人たちを見返してやろう」っていう気持ちがこみ上げてきたんです。そういう闘志が湧いてきた時から、段々と成績は良くなっていきました。本当はそんなんじゃいけないんでしょうけどね(笑)。でもそれで吹っ切れた感じはありました。


自分にしかできないことをやる。プロの世界で生き続けるために

―北別府さん、大野さん、川口さんとのエピソードを伺いたいのですが、一緒にローテーション投手として活躍されて、お3方からたくさん影響は受けたのではないですか?

長冨:そうですね。投球スタイルは三者三様なので、いろんな部分で参考にしていました。

北別府さんは球はそこまで速くないんですけど、めちゃくちゃコントロールがいいんです。見ていても「えぇ!?」ってびっくりするぐらい(笑)。10球投げたら9球は、構えたミットにスッポリ収まります。ミットが動くことは全くありません。加えて、フワって浮くようなカーブも持っているので、緩急をつけた投球術はすごいなって思っていましたね。

大野さんと川口さんはお2方とも左投手ですけど、全然タイプが違うんです。大野さんはめちゃくちゃ真面目で、その性格がピッチングに表れていましたね。

川口さんは体全体を使って一生懸命に投げるんです。それで「川口は一生懸命投げるけど、お前は楽に投げているように見えるな。もっと一生懸命に投げれば?」ってベンチから言われるんですよ(笑)。一生懸命やってるんですよ!?(笑)。でもやっぱり僕の投球フォームと比較すると見え方は全然違うんでしょうね。

でも、それで150kmを超える豪速球を投げてるからすごいですよね(笑)。

長冨:まぁそれで安定した結果を出せればよかったんですけど。そういう投球フォームや配給に関しては、北別府さんからご飯に連れて行ってもらった時にアドバイスをいただいたことはあったんです。「こういう感じでやってみたら?」って。

ただ、せっかくアドバイスをいただいても僕自身が受け入れられなかったんです。コントロール重視の北別府さんに対して、僕は真っ直ぐを真ん中にガンガン投げて抑えるスタイルだったので。

だから球速が衰えてきた30歳以降は困りましたね。球威で抑えられない分、コントロールで勝負しないといけないのに、取り組むのが遅すぎて投球スタイルを変えることができませんでしたから。

その後、どうされたのでしょう?

長冨:1995年に日本ハムファイターズに交換トレードで移籍したのですが、それが野球人生の転機となりました。

というのも、FA宣言をして広島を出たわけではないので、日本ハム側に「先発で投げさせてください」なんて自分のわがままを言うわけにもいかないじゃないですか。そこは気持ちを切り替えて、「その監督が望むようにしよう」「チームの一つのピースになろう」って決めたんです。

それでチームから求められた役割が、中継ぎだったと。

長冨:はい。すでに気持ちは切り替えられていたので、中継ぎに転向してからの成績は安定していましたね。

投球スタイルもスライダー中心になりました。真っ直ぐはたまに投げるぐらいです。力も入れなくなったので、自然とコントロールも良くなっていきましたよ。結果も出て、気持ち的に余裕も出てきましたから。

だから変な話、若い頃みたいに「つまんない」とか「なんでやねん!」みたいに思うこともありませんでしたね(笑)。先発として通用しなくなって、自分がこの世界で生きていくためにはどうしたらいいかって考えた時に、「中継ぎで投げることが、今の自分にできることだ」って素直に思えたので。


後編 長冨浩志が歩んだ流転の野球人生「独立リーグで学んだ、子供たちに適した指導法」につづく

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