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baseball2019.02.20

斉藤和巳(元福岡ソフトバンクホークス)“負けないエース”の怪我と戦い続けたプロ野球人生~マウンドを目指し続けた先に得たもの~

あなたにとって、“平成最強の投手”は誰だろうか。野茂英雄、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大、どの投手も時代を彩った名プレイヤーだ。その中で、短いプロ野球生活ながら“負けないエース”と呼ばれ、歴代最高の投手の1人と言われた男を知っているだろうか。元福岡ソフトバンクホークス・斉藤和巳だ。
 
彼は実働11年で79勝。そのうち64勝を2003~2006年のたった4年間で積み上げた。さらに、プロ11年間で通算勝率.775と先発投手として驚異的な数字を残している。だが、そのプロ野球生活は常に怪我と隣り合わせであり、計3度の手術を経て、最後は6年にも及ぶ過酷なリハビリ生活を送った。
 
引退してから約5年。現在の斉藤は、自身の野球人生をどのように振り返るのだろうか。


「登板日に備え、どのタイミングで何を食べるか」を考える。斉藤和巳が実践した先発投手ならではの食事法

――斉藤さんが野球を始めたきっかけを教えてください。
 
斉藤:2歳上の兄が野球を始めたことがきっかけです。こどもの頃って、上の兄弟がやることを何でも真似したがるじゃないですか。僕も同じで、ただ兄の真似をしただけです。それがたまたま野球だったというだけで。
 
――そうだったんですね。学生時代はどのメーカーの野球用品を使っていたか覚えていますか?
 
斉藤:高校の時は「ZETT(ゼット)」を使っていました。ただ、こだわり等は何もなくて、 単純にゼットのロゴマークが好きだったので愛用していました(笑)。
 
――若い頃は機能性よりも格好から入りますもんね(笑)。学生時代に行っていたトレーニングに関してはいかがでしょう?
 
斉藤:学生時代はほとんど練習していないので、あまり手本にならないと思いますよ(笑)。僕が中学・高校生の頃はとにかく練習量が多くて、自分でやるというよりも、周りにやらされる感が強い時代でしたから。僕なんて「どうやって先生の目を盗んでサボろうか」っていうことしか考えていませんでしたよ(笑)。
 
――それは意外でした(笑)。では、今振り返って「学生時代にこれをしておけばよかったな」と思うこともあるのではないですか?

斉藤:そうですね。もう少しトレーニングに興味を持っていれば、また違った野球人生を歩んでいたかもしれない。そう思うことはあります。ただ、先生の目を盗んで「いかにサボるか」を常に考えていたことにより、間違いなく要領は良くなったと思いますよ(笑)。生きていく上で要領の良さって大事ですから。その点に関して言えば、今のこどもたちよりも上なんじゃないですかね。
 
――学生時代の食事の摂り方で気をつけていたことはあります?
 
斉藤:栄養バランスを考えるというよりも、好きなものを好きなだけ食べていましたよ。そのスタイルは今でもあまり変わりません。僕の考えとしては、若い頃は代謝がいいので、ご飯は食べたいだけ食べた方がいいと思っています。たとえ栄養が偏っても、そんなに問題はありません。
 
むしろ学生時代から栄養や消化のことを考えすぎると、量を食べられなくなってしまう。野球選手としての強い体を手に入れるには量を食べることは必須です。栄養面は大人になってから考えても遅くはありません。なので10代の頃は好きなご飯をたくさん食べて、体を動かして、いっぱい寝る。この繰り返しで十分だと思います。
 
――斉藤さんは1996年にドラフト1位で福岡ダイエーホークスに入団されましたが、プロの世界に入ってからはトレーニングや食事内容において、どのように変わっていきましたか?
 
斉藤:トレーニングに関しては、その時の調子や自分の体調と相談し、何をすることがベストなのか、ということを常に考えるようになりました。食事の面では、僕はもともと痩せる体質なので、シーズン中に体重を落とさないよう食事量には気をつけていましたね。プロに入ってからは、年齢や体の変化に伴って栄養面にも気を使うようになりました。
 
加えて、僕は先発投手だったので、試合で投げる日のタイミングによって食事のメニューを変えていました。例えば、登板2日前には炭水化物を多く摂り、登板2日後だったらなるべく多くタンパク質を摂取する。その中で、不足している栄養素があればサプリメントで補っていく。このように週に1度の登板に備え、どのタイミングで何を食べるか、というのは意識していましたね。


勝つためじゃなく、“負けないため“の投球を。鷹の絶対的エースから学ぶ「先発投手の心得」​

――実際にプロに上がった時、どんなことに1番苦労されましたか?
 
斉藤:僕の場合、高校からホークスに入団したので、はじめはプロ仕様のストライクゾーンへの対応に苦労しました。高校とプロではストライクゾーンの両サイドの広さ、そして高低がボール2~3個分違いますから、もう真ん中しか投げるところがないくらい狭く見えましたね。それだけ、この世界では技術が必要なんだなっていうのは痛感しました。
 
――それでも2003年には20勝を挙げて沢村賞も獲得されましたけど、そこまで活躍できるようにまでには何かきっかけのようなものはあったのでしょうか?
 
斉藤:プロ3年目の1998年に右肩を手術したことが、僕の野球人生にとって転機となりました。というのも、それまでは練習や試合のことより「1日をどう楽しく過ごすか」ということしか考えておらず、プロ野球選手になって満足してしまっていた自分がいたんです。練習するにも誰かと群れていたりして、ワイワイ喋りながらやっていたから集中して投げることすらできない。プロ3年目までは、そんな意識の中で野球をやっていたんです。
 
だから手術を経験して、クビを覚悟してからはいろんなことを考えるようになりました。もし本当にクビになったとしても誰も助けてくれませんし、プロ意識がない中で野球をしていれば、こういう形でいずれ自分に返ってくる。そう考えるようになって、ようやく危機感を感じ始めたんですよね。これが「プロ」であるという自覚を持とうと思ったきっかけでした。
 
――それに早い段階で気づけたことは、とても大きかったように思えます。斉藤さんは2006年にも2度目となる沢村賞に加え、投手5冠を獲得されるなど“負けないエース”として圧倒的な成績を残されました。その中で、勝つために投球で心がけていたことって何かあるんですか?

斉藤:僕は“勝つための投球”というより、“負けないための投球”を心がけていました。パ・リーグでは投手は打席に立ちませんし、野手に得点してもらわないと勝てませんから、その中で僕にできることは「いかにゼロに近い失点で抑えることができるか」ということ。
 
先発としての役割はそこだと思っているので、“勝つため”じゃなく、“負けないため”にどうすればいいのかを常に考えていましたね。
 
――具体的にどのようなことを意識されていたのでしょう?
 
斉藤:特に意識していたのはマウンド上での状況判断です。自分の状態や試合の状況、そしてその場の空気を、あのマウンドの上で感じ、どのボールをどこに投げるのかを瞬時に判断していく。僕の場合は、登板前に様々な場面を想定しながらシミュレーションしているので、慌てずに次の一手を選択することができるんです。
 
そういった事前準備や、今まで得た多くの経験がありますから、どんなピンチの場面でも何をやるべきかはいつも明確化されていました。頭の中を情報でパンパンにしてから試合に臨む、ということを習慣にしていたので、無意識に近い状態で状況判断をすることができていたんです。
 
判断における「正しさ」の基準は人それぞれですが、僕は自信を持って作戦を選択し、ボールを投げ込んでいたと思いますよ。


計3度の手術、最後は6年間のリハビリ生活も「幸せすぎる野球人生」に

――2007年以降は度重なる肩の故障によって2度の手術をされ、結果的に同年のCSでの登板を最後にマウンドへ戻ってくることはありませんでした。その頃の肩の状態というのは、ご自身でどのように感じておられましたか?
 
斉藤:2007年の時点で、僕の肩はボロボロでしたね。これは自慢でも何でもありませんが、あの状態で投げ続ける投手は他にいないんじゃないかと思います。それぐらい僕の肩は酷かったので。なので、遅かれ早かれ手術が必要だということは自分の中で何となく分かっていました。
 
――そんな状態で投げ続けた理由というのは?
 
斉藤:当時のチーム状況がとても苦しかったということもあり、首脳陣の方々から「10日以上間隔を空けてでも投げてほしい」と言っていただいたんです。こんな状態の僕でも、チームは必要としてくれた。それを意気に感じて、マウンドに立ち続けたんです。この選択には何の後悔もありません。
 
ただ、思いの外大きな手術だったのは想定外でしたね。その時は「またリハビリして這い上がればいいや」「いつかまた投げれるやろ」と思っていたんですけど。その2年後に3度目の手術をすることが決まった時、「もう一度同じ時間を過ごすのか」と思ったら、すぐに決めることはできませんでした。
 
最終的には「また投げたい」という想いの方が勝ったので、手術を決断することができましたが、再びマウンドに戻るという目標を叶えることはできませんでした。
 
――引退はどのタイミングで決断されたのでしょう?

斉藤:ユニホームを脱ぐことを決めたのは、2013年の7月末、支配下登録されなかった時です。もちろん毎年「引退」という2文字は頭によぎっていたのですが、前年に小久保裕紀さんや城島健司さんという一緒にプレーさせていただいた方々が現役を退いていく姿を目にした瞬間、ボヤけていた「引退」の字がハッキリと頭に浮かんだんです。
 
その時、「来年は今までとは違う1年にしないといけない」。そう覚悟を決めました。じゃないと、これまでサポートしてくれたスタッフ、応援してくれたファンの方々、そして自分自身に対しても背を向けることになるので。だから今期、支配下登録されなかったら潔くこの世界から身を引くことを決め、全力でリハビリを行いました。
 
もう最後は藁にもすがる思いでいろんな薬品を試したり、注射を打ったりして、たとえ副作用がこようとも、ほんの少しの可能性があるならどんなことでもしました。でも結局、回復できないまま約束の期日がきてしまったので、「ここでちゃんと終わらせよう」と引退を決意したんです。
 
――斉藤さんは数々のタイトルを獲得され、チームとして日本一を経験されました。ですがその一方、計3度の手術によってリハビリに長い時間を費やし、つらい想いもたくさんされてきたと思います。それを踏まえて、ご自身のプロ野球人生がどのようなものだったのか改めて振り返ってください。
 
斉藤:最高でしたし、幸せすぎる野球人生でした。それ以上の言葉があるなら教えてほしいぐらいですね。普通の人には経験できないことをさせてもらったし、いろんなものを感じ、様々な景色を見ることができた。それに、今もこうして野球に仕事として携われていますし、もう言うことないですよね。
 
確かにしんどい思いもしましたし、怪我ばかりの人生でしたけど、その怪我が自分にとってプラスになっていますから、マイナスな部分は全くありません。


「仲間と協力すること」を学んでほしい。斉藤和巳から、プロを目指すこどもたちへ

――ここからは現役時代に使用していた野球用品について伺いたいのですが、どこのメーカーを使っていたのですか?
 
斉藤:入団してから約10年はアシックスを使っていました。その後はずっとアディダスですね。
 
――グラブやスパイクにこだわりはありましたか?
 
斉藤:スパイクは特に何もこだわりがなかったので、メーカーから支給されていたのもを履いていましたが、グラブにはめちゃくちゃこだわっていましたね。僕はシーズン終了後にメーカーに5~6個グラブを作ってもらって、その中から1つ来期の試合に使える“相棒”をオフの期間を利用して育てていくんです。
 
まず家で型を付けて、徐々に柔らかくしていきながら、12~1月の自主トレで実際に使っていき、ボールに馴染ませていきます。そして春季キャンプ、オープン戦と実戦で使用していくんです。
 
その中で、指の先まで自分の感覚があるかどうか、という部分も育てていく上で大事にしていました。守備でピッチャーゴロをグラブの先でファーストにトスする時、自分の指で拾い上げている感覚が欲しいので、そこを追求しながら開幕までにグラブを育てていましたね。
 
あと僕はフォークを投げるんですけど、握る際に指を広げるので、その時にグラブが動かないようポケットを深くしていました。
 
また、僕はグラブを持つ左手の使い方が上手くないので、グラブの重さを利用して投げるタイプではないんですよ。だからできるだけ軽いものを使っていましたね。
 
――グラブにはたくさんこだわりがあるんですね! では、これから野球を始める野球少年に対して、グラブを選ぶ際のポイントを教えていただけますか?

斉藤:お店でグラブを選ぶ際に、実戦をイメージしながら手にはめてみてください。自分が守るポジションを把握した上で、重さはどうか、ポケットの深さはどうか、どういう形状がいいのか、など様々なことを確認しましょう。そして自分がグラウンドでどのように使いたいのかをイメージして、最終的にその形が自分に合っているのかを見極める。それがグラブを選ぶ際に大事なことですね。
 
――ありがとうございます。最後に将来プロ野球選手を目指すこどもたちに向けてメッセージをお願いします。
 
野球を通じて「仲間と協力すること」を学んでほしいなと思います。野球は団体競技なので、1人の力で勝つことはできません。チーム全員の力が合わさることによって大きな力を生み出すことができる。それが野球というスポーツの醍醐味なので、チームワークを大事にしてほしいですね。
 
逆に「自分1人でやってやる」とワンマンプレーのような行動を取ってしまうと、試合に勝つことは難しくなってしまいます。チームとして機能させていくために自分は何をすべきなのか、自分に与えられた役割はなんなのかを考えられるようになれば、選手としても、1人の人間としても成長するスピードが早くなるでしょう。そういう意識を持って、野球を続けていってほしいですね。

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