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baseball2019.06.25

石毛宏典(元西武・ダイエー、元オリックス監督)が語る「これからの野球界を背負う人材に伝えたいこと」

1980〜90年代、圧倒的な強さを誇った西武ライオンズのチームリーダーとして活躍された石毛宏典さん。
 
現役引退後はオリックス・ブルーウェーブ(当時)の監督や、各地の独立リーグの立ち上げなどに携わられた石毛さんに、現役時代のエピソードや、現在の野球界について感じていることをお伺いしました。


――まずは、野球を始めたきっかけを教えてください。
 
本格的に野球を始めたのは中学生になってからです。実家が農業をやっていたんですが、その手伝いをするのが当時は本当に嫌でした。
 
「帰りが遅い部活に入れば、農作業をしないで済むんじゃないか?」と、野球部に入ったのが最初です。
 
練習がキツかったので、何度も「辞めたい」と思いましたが、その時々の監督から「野球を続けた方が良い」と強く説得され、結果として野球に長い間携わることになりました。中学の頃から内野手をやっていましたが、まさかプロ野球選手になるとは、この頃には思いもしませんでしたね。



――グラブ選びのこだわりを教えてください。
 
内野手にとってのグラブはパフォーマンスに直接影響するものなので、プロの世界に入ってからは、特にこだわりを持っていました。
 
現役時代はスラッガー製で、素手で触れた感覚に近いグラブを選んでいました。
グラブの淵が浅く、間口は広め、薄くて芯がしっかりしているのが特徴です。



――続いて、バットについてのこだわりも教えてください。
 
重心が先にある、細めのバットを使っていました。軽く握った状態でも、ヘッドの重さを利用し、距離を伸ばそうと思っていたからです。対照的にベテランになってからは、タイカップ型のグリップのバットに替えて、ヘッドをつけ、飛距離を伸ばすように心がけました。
 
――本塁打や飛距離に対しては、どのようにお考えでしたか?
 
飛距離へのこだわりはありませんでした。高校時代は本塁打ゼロ、大学時代も4年で8本塁打(※公式戦では7本塁打)だったので、プロ1年目に、まさか21本も本塁打を打てるとは到底思いませんでした。「意外に打てた」と言うのが、正直な感想です(笑)。
当初は「守備は良いが打撃に課題がある」と言われていたので、周囲の人にもビックリされたことを覚えていますよ。
 
――「プロ野球選手としてやっていける」と、手応えを感じた瞬間はありましたか?
 
意外に思われるかもしれませんが、引退まで常に不安と隣り合わせでした。どんなに実績がある選手でも、心の奥底では何かしらの「不安」を抱えていると思いますよ。だから、練習や身体のケアなど、万全な準備をして試合に臨むんです。
「野球選手になりたい」と思って、プロの世界に飛び込んだ選手でも、入団後に野球が趣味のような感覚で「好き」な人はいません。野球が「仕事」になるので、責任や信頼関係も伴いますしね。



――選手時代の辛いエピソードがありましたら、教えてください。
 
当時は球場での罵声が酷かったので、本当に大変でした。関西にある球場では、ベンチ裏から野次がよく聞こえてきましたよ。言い返せないので本当に辛かったです(苦笑)。
 
――野球がうまくなるには、どうすればいいでしょうか?
 
「誰でも確実にうまくなる」方法が見つけられたわけではありませんが、指導者になってから、「なぜできないか」がわかるようになりました。選手をじっくり観察して、見る機会が増えたからでしょうね。
上達の近道は、正しい身体の使い方をまずは目で見て覚えてもらって、理論を交えながら繰り返し実践していくことでしょうかね。
 
――野球を指導されるにあたって、感じられた課題などはありましたか?
 
野球の「基本」を教えられる人材が不足しているように感じますね。例えば「相手の胸を見てキャッチボールをしなさい」と言っても、なかなかすぐにはできない。「どうすれば出来るようになるのか?」を的確に伝えられる指導者が少ないように感じています。



――さまざまな独立リーグの設立に携わられたご経験をお持ちですが、独立リーグの現状について、どのように捉えていらっしゃいますか?
 
人間関係や経済的な事情でルートを外れてしまった人の中にも、可能性を秘めた選手がたくさんいます。「正しい指導によって磨き上げれば、彼らもプロ野球選手として活躍できるのではないか?」と思い、独立リーグを立ち上げました。
 
1年目に四国アイランドリーグに在籍していた角中(勝也、現千葉ロッテ)は首位打者を獲得しましたし、独立リーグ経由でプロ入りする人も増えました。人材育成では、一定の成果はあげられたと思っています。



――ここでプロ野球に話題を移しますが、2018年のパ・リーグは、埼玉西武ライオンズが10年ぶりに優勝しましたね。ライオンズOBでもある石毛さんは、ライオンズの戦いぶりをどのようにご覧になられましたか?
 
優勝の原動力は、源田、外崎、山川ですね。辻監督は、結果が出ない時期も、レギュラーとして起用を続けました。将来性のある選手を獲得し、一流選手に育て上げられたことが大きいと思います。
 
――石毛さんも過去に監督を経験されていらっしゃいますが、辻監督や工藤監督をはじめ、ライオンズOBが指導者として活躍する場面も増えました。元チームメートの活躍を、どのようにご覧になられていますか?
 
僕が選手だった頃は、V9時代の巨人で活躍した選手が、各球団の監督として活躍していた時期でした。ライオンズの監督としてお世話になった広岡達朗さんや森祇晶さんもそうです。
 
「強いチームから学びたい」と言う観点から、さまざまな需要があるのでしょうね。さまざまなチームでの元チームメートの頑張りは、私自身の励みになっていますよ。



――石毛さんがいらした頃のライオンズは、「常勝チーム」であったように思います。強さの理由はどこにあったと思いますか?
 
根本陸夫さんが才能ある選手を獲得し、広岡さんが育成し、森さんがその戦力を使って、年齢や投打のバランスが良いチームを作ったこと。
 
あとは、何と言っても「チームリーダー」である石毛宏典の存在ですよね(一同爆笑)。
 
この間、東尾修さんに会った時に「石毛のおかげで明るいチームになった」と言ってもらえて、とても嬉しかったんですよ。
 
――日本シリーズで圧倒的な強さが特に印象的でしたよね?
 
当時のパ・リーグは観客数が少なく、いわば日陰の存在だったので、絶対に「セ・リーグのチームには負けたくない」という想いはありましたね。
 
あとは、優勝すると給与が上がったり、チームスタッフが胸を張れるようになったりするのが嬉しくて、「日本一になる」という使命感を持ってプレーしていました。



――石毛さんは、西武ライオンズで野手初めての1億円プレーヤーでもありましたよね?
 
僕の現役時代はプロ野球選手の平均年俸が3000万円くらい、1億円プレーヤーも数えるほどしかいない状況でした。
 
今年は最高年俸が推定6億5000万円(菅野智之投手 巨人)で、1億円プレーヤーも数多く誕生しています。
 
さまざまな人気スポーツも出てきていますが、いつまでも夢を発信し続けられる野球界であってほしいです。例えば、10億円プレーヤーが誕生するとかね。
 
野球界に輝かしい夢があれば、おのずと野球をしたい子供たちが増え、発展にも繋がると思いますよ。
 
――これから野球に取り組む子供達へのメッセージはありますか?
 
まずは、道具を使って野球ができるありがたみを感じてほしいですね。
今の子供たちは、すぐにグローブを購入してもらえていますが、私の時代はそうじゃなかった。
 
プロ野球を目指すという夢を持つのも素晴らしいですが、まずは1日でも早くゲームで活躍して、ご両親を安心させてあげられるよう、日々の練習を頑張ってください。
 
技術的な面で言うと、僕たちの頃よりも素手で「握る」動作や、考えて道具を使って野球をする機会が昔よりも減っているように思います。その辺りにも注目して実力を伸ばしていってほしいですね。


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