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baseball2019.10.28

上原浩治(元メジャーリーガー、巨人)の"雑草魂"で駆け抜けた野球人生【イノフェス2019イベントレポート】

プロ野球の読売ジャイアンツや米メジャーリーグで活躍し、21年にわたる現役生活にピリオドを打った上原浩治氏。プロ1年目には20勝を挙げ沢村賞を獲得し、ボストン・レッドソックス時代は世界一を経験。昨シーズンには、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを記録した。

そんな数々の記憶に残る野球人生を歩んだ上原氏が、9月28日、日本最大級のデジタル・クリエイティブフェス「J-WAVE INNOVATION WORLD FESTA 2019」(通称:イノフェス)に出演。キーノートセッションで、MCのクリス・ペプラーが"野球界のイノベーター"上原浩治の"雑草魂"に迫り、21年間の野球人生を振り返った。今回は、そのトークの模様をお届けする。


■怪我をして気づいた「プロとしての生き方」


――今シーズンの途中、現役引退を表明された上原さん。振り返ると、野球人生を左右する1998年のドラフトでは、最終的にメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となりました。アメリカに行くか、日本で腕を磨くか、当時はかなり悩まれたんじゃないですか?

上原:だいぶ悩みました。当時はNPBを経由せず、アマチュアからメジャーに行く選手がいませんでしたから。後々、田澤純一(現、シンシナティ・レッズ傘下)くんが社会人から直接メジャーに行ってますけど、もしかしたら僕が先駆者になっていたかもしれないですね。

――何故、オファーを断ったのですか?

上原:当時のエンゼルスのスカウトの方から「100%の自信があれば来てほしい」と言われたんですね。ただ、当時の僕は100%の自信があるかって言われたら、正直、ありませんでした。90%ぐらいはあったんですけど、あと10%足りなかった。そういう自分の気持ちに気づいてから、段々とメジャーに行きたい思いが冷めていったので、最終的に日本に残る決断をしたんです。

――そうでしたか。でも、ジャイアンツではルーキーイヤーに20勝を挙げ、沢村賞にも輝きましたね。

上原:はい。それに関しては本当に嬉しかったです。



――さらにその年には、自身を例えた「雑草魂」という言葉が1999年の流行語大賞に選ばれました。

上原:ありがたいことなんですけど、松坂大輔(当時・西武ライオンズ)も「リベンジ」という言葉で流行語大賞に選ばれているので、僕はそのついでみたいなものです(笑)。パ・リーグは松坂、セ・リーグは上原、みたいな感じでちょうどよく分けてもらって(笑)。

――それでも本当に凄いことですよ(笑)。数々の賞を受賞し、プロとして素晴らしいスタートを切った上原さんですが、振り返ってみて、ジャイアンツ時代はどのような野球人生でしたか?

上原:もちろん、いい思いもさせていただきましたし、逆に悔しい思いもたくさんしました。ですがその中でも「怪我が多かったなぁ」というのが印象としては特に強いですね。

――ただ、怪我がありながらも今年まで選手生活を続けてこられたのは、しっかり自己管理をされていたからこそだと思うのですが。

上原:確かにそれはあります。でもプロに入って間もない頃は食べたいものを食べて、飲みたいもの飲んでという感じで、かなり不摂生な食生活を送っていましたよ。ただやはり怪我をしてからからは栄養士さんに相談するようになりましたし、1日に(お酒を)飲む量も決めるようになりました。今思えば、怪我をして気づいた事っていうのはたくさんありましたね。


■メジャーの舞台で培った、1イニングにかける想い


――失敗を経験して、それを次に活かすことができた、というのが大きかったんでしょうね。そしてプロのキャリアを重ねていく中で、2006年には第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場し、チームのエースとして世界一を経験されました。優勝を果たした瞬間はどのようなお気持ちでしたか?

上原:それはもちろんすごく嬉しかったですよ。記念すべき第1回目ですし、メジャーの選手も参加していてかなりレベルの高い大会でしたから、その中で優勝を勝ち取れたというのは、本当に価値があることだと思います。

――プロ野球の試合とはまた別のプレッシャーがあったんじゃないですか?

上原:そうですね。やはりそれぞれのチームを代表する選手が12球団から集まっているので、周りからは「勝って当たり前」みたいな雰囲気が漂ってましたからね。

――そうですよね。でも即席のチームで、すぐに組織としてまとまるものなのですか?

上原:まとまりますよ。僕らは野球をしに行っているわけですから、野球のことに関して言えば、まとまりはすごくあったと思います。プライベートに関しては…わかんないです(笑)。



――国際大会の中でアメリカでの試合を経験されましたが、2009年には実際にFA権を行使して渡米されました。34歳でメジャーに行くというのも相当の覚悟があったんじゃないかと思いますが。

上原:まぁでも、思い出づくりですよ(笑)。(ボルチモア・オリオールズと)契約する時に「2年で終わるな」っていうのは感じていましたから。

――そうだったんですか。でも結果、2年が9年まで伸びました。随分と長い思い出づくりになりましたね(笑)。

上原:かなりいい思い出になりましたね(笑)。

――そこまで長くメジャーの舞台で活躍できた要因というのは?

上原:日本にいた時はほとんど先発をやっていましたが、アメリカに行ってから中継ぎをやるようになって、1イニングにかける想いが強くなったことが要因だと思います。中継ぎに配置転換してから、その1イニングのために私生活からすごく気にするようになりましたし、後ろに回ったことによって、また違った野球の価値観が生まれ、プレーの幅を広げることができましたから。

――ただ、ジャイアンツ時代は先発投手として素晴らしい実績を上げていましたから、中継ぎへの配置転換を受け入れるのは難しかったのではないですか?

上原:いえ、受け入れるのは簡単なことでした。当時のオリオールズの監督から「先発はダメだ」と告げられた時に、たとえ先発でやりたい意向を示したとしても、「だったらマイナーに行け」と言われていたと思うので。すぐに気持ちの切り替えはできましたね。


■自分の気持ちを表現する。アメリカで学んだ、メジャーで生き抜くための術


――ボストン・レッドソックス時代の2013年にはワールドシリーズ優勝を果たし、胴上げ投手になりました。このシーズンはいかがでしたか?

上原:本当に長い1年でした。もう、それだけですね。「俺、けっこう投げたよな」っていう(笑)。

――そう思いますよね。このシーズンはポストシーズンを含むと86試合に登板してますし(笑)。ワールドシリーズの舞台はいかがでしたか?

上原:興奮しましたね。前年もテキサス・レンジャーズの一員としてワールドシリーズには進出しているんですけど、僕、メンバーから外れたんですよ。「敗戦処理でもいいから、あの場で投げたい」という気持ちがすごくあったので、本当に悔しくて…。だから翌年にその願いが叶えられて、めちゃくちゃ嬉しかったです。

――改めて、計9年もの間メジャーでプレーされましたが、日本とアメリカの違いって、どういうところに感じましたか?

上原:やはり、表現の仕方でしょうか。監督に対してもそうですし、お店の店員に対する注文の仕方にしてもそうですが、自分の気持ちを全面に出す。そこは日本人よりも優れているなと感じました。やはり日本人って、積極的になれない部分ってかなりあると思うんですけど、アメリカは積極的に自分が前に出ないと上に行けない。そういう考えがありますから。



――それは当然、野球にも反映される。

上原:反映されますね。そういうのを感じ取ってからは、僕も積極的に会話をするようになりました。なるべく通訳を入れず、ジェスチャーで監督や選手にアピールしてましたよ。

――日本の野球には、監督に対して積極的にコミュニケーションを取る、というアピールの仕方はあまり根付いていないですよね。

上原:監督となると、かなり上の人っていうイメージが日本人にはあるので、なかなか積極的に話をしに行くっていうのはないですよね。けど、アメリカだと敬語もないですし、年齢が離れていても会話の仕方はフレンドリーですから、コミュニケーションはしやすいなと思います。

――アメリカで得られる、その積極的に前に出る姿勢・意識というのは、野球選手だけじゃなく、ビジネスパーソンとしても大事な部分ですよね。

上原:そう思います。アメリカでの生活を経験すれば、会社をアピールする、自分をアピールするっていう表現力がつきますし、それが、その世界で生き抜くための大きな武器になります。ただ、そういった“アメリカ流”は2~3年いてようやく養えるもの。だから向こうに9年いられたことは僕にとって、野球選手としても、一人の人間としても大きかったです。

――やはりご自身でも、アメリカにいって「変わったな」と感じますか?

上原:はい。野球に関して言えば、アメリカで色々なことを学んだことで、さらに野球が好きになりました。もともと勝ちに行く姿勢をがむしゃらに監督にアピールしていたんですけど、それはちょっと違うなって。人によっては、それば苦しい姿に見えてしまうじゃないですか。だから苦しいのをアピールするんじゃなくて、楽しく野球をしている姿を見てもらう。そうするようになってからは、マウンドで投げることが楽しくて仕方がなかったです。


■失敗は、いずれ笑い話になる。だから前に進んでほしい


――今年、44歳で現役引退をされました。それ以降はジャイアンツの選手とも積極的に交流されていますが、どんなことを話されているんですか?

上原:そこまで大したことは言ってませんけど、ただ「野球を楽しくやりなさい」と。「現役でやれるうちが花だから」というのは常に話していることです。どの選手にも、現役でいられることがどれだけ幸せかっていうのを感じてほしいですから。僕もできることなら、まだまだ野球は続けたかったです。結果、現役を辞めたら“ただの雑草”になっちゃいましたね(笑)。

――引退されても、根性はまだありますよね?(笑)。

上原:んー…今はないかもしれないですね(笑)。

――本当ですか!?(笑)。今最後に「未来に向けて頑張っている若い世代に向けてメッセージをお願いします」って言おうとしたのに、ダメじゃないですか(笑)。

上原:ちゃんとメッセージは言いますので、大丈夫ですよ(笑)。とにかく僕が伝えたいのは、今自分がやりたいこと、考えていることがあればすぐに行動に移してほしい、ということです。「あの時こうすればよかった」っていう思いだけは絶対にしてほしくないですし、たとえ失敗しても、5~6年後には笑い話になりますから。

僕の場合、レンジャーズ時代の2011年のポストシーズンで3試合連続ホームラン打たれましたからね(笑)。しかもポストシーズン史上初で、今でも破られていないワースト記録ですよ(笑)。当時はかなり落ち込みました。けど、今は笑い話としてみんなに話しているんです。

それに究極のことを言えば、失敗しても命までは奪われません。よく「打たれたらどうしようって思わないんですか?」と聞かれますが、そんなこと思うに決まっています。大舞台ならなおさら怖いです。でも、どれだけ打たれようと命までは取られない。だったら頑張ろうって、自分を奮い立たせることができるんです。そう考えた方が、野球でもなんでも、より前に進んでいくことができますから。

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