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baseball2020.02.21

『野村克也氏が日本プロ野球界に残した軌跡を、どう受け継ぐのか。』

野村克也さんが亡くなられた。

メディアではその功績を讃える声や人となりを紹介するエピソードなどが数多く紹介されている。著名人やスターが亡くなった際にはよくあることとはいえ、野村さんに関する記事のボリュームはちょっと群を抜いていた。それだけ、世の中にインパクトを残した方だったということだろう。

残念ながら、わたしは野村さんに直接お話をうかがったことはない。行きつけのお寿司屋さんやホテルのロビーなどでお見かけしたことは何度かあったし、いわゆる『野村本』の執筆依頼を出版社から受けたこともあったが、何となく消滅してしまった。

一報に触れて号泣したヤクルトの高津監督からは「野村さんと出会えていなかったはいまのぼくはない。これはもう、絶対です」という話を聞いたことがある。逆に、功績は評価しつつ「あの人柄はちょっと」と苦笑する人にも出会ったことはある。それでも、わたしにとっての野村克也さんは、あくまでもメディアを通じて見た野村克也さんである。

つくづく、惜しい人を亡くしたと思う。

記録を見てビックリしたことがいくつかある。ヤクルトの監督になる以前、野村監督は南海で8シーズン指揮を執っているが、そのうち、6シーズンはAクラス入りを果たしており、最下位は一度もなかった。当時の南海といえば弱小、不人気球団の代名詞だったような印象があるので、これは大いに意外だった。

意外といえば、監督としての通算成績、1565勝1563敗76分けという数字も意外だった。負け数では歴代1位とのことだが、実は、監督として最後のシーズンを迎えるまでは通算成績で負け越していたのである。

ところが、8月以降だけで17の貯金を作ってチームを初のクライマックス・シリーズに導き、自らの通算成績もきっちりとプラスに転じさせた。この年、楽天の貯金は最終的に11だったから、最後のシーズンの7月までの段階であれば、通算成績で負け越したまま監督人生を終える可能性が濃厚だったのである。土壇場での大逆転。ご本人は己の運のなさを嘆くことが多かったようだが、どうしてどうして、これほどの逆襲はなかなか見られるものではない。

だが、わたしが一番凄いと思うのは、彼が残した実績や結果ではない。正直、野村さんよりも凄い成績を残した選手や監督ならば他にもいるし、彼よりも愛された選手や監督もいる。ただ、野村克也さんほどにプロ野球、プロスポーツというものを理解していた方はなかなかいなかった。

プロスポーツとは、突き詰めて言ってしまえば、興行である。どれほど凄いプレーをしようが、どれほどドラマチックな試合を演じようが、観客に見てもらえなければ意味がない。閑古鳥のなく大阪球場で全盛期を送らざるをえなかった野村さんは、そのことを十二分に理解していた。

それが、ぼやきという形で現れた。

南海時代はともかく、ヤクルト、阪神、楽天の監督時代、野村さんのコメントはほぼ毎日のように新聞を賑わせた。チームが勝った負けたということ以上に、野村さんが何を言ったのかに注目が集まることも珍しくなかった。時には対戦相手に対する挑発や非難と受け取られることもあったが、それがまた相手の反応も含めて、新たなニュースを生んだ。

彼は、結果や成績だけでなく、自身の発言でもプロ野球を盛り上げた、極めて希有な存在だった。

毒を吐けば、自身も傷つく。そのかわり、周囲は盛り上がる。だが、傷つくことを恐れ、非難や批判は身内だけでこっそり、というのが日本のプロ野球、ひいてはプロスポーツ界の常識になっている。残念なことに、Jリーグにはいまだかつて一人も、野村克也さんのように他球団は他の選手、監督を挑発し、否定するような監督は出てきていない。

思えば、わたしが敬愛してやまないヨハン・クライフは、好みではないサッカーをする選手や監督を容赦なくこき下ろす人でもあった。彼と、敵対する陣営との論争は、試合がない日の大いなる楽しみの一つでもあった。

クライフはすでにこの世を去り、野村さんもまた旅立った。試合がない日の野球やサッカーを盛り上げてくれた傑物が、また一人、いなくなった。

それがたまらなく寂しい。

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