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baseball2021.08.02

松坂大輔が野球界に残した軌跡

経済の世界では、「失われた20年」ということがよく言われる。ここ20年、あるいは30年、日本経済は成長力を失ってしまった。右肩上がりで経済成長していた時代は終わり、完全なる停滞期に入ってしまった──つまりは暗黒の時代だと言うのである。

わからないではない。わたしが20代を過ごした80年代半ばから90年代にかけて、日本経済の勢いは圧倒的だった。世界中のどこへ行っても、食事をするたび、酒を呑むたび、タクシーに乗るたび、「うわ、安い!」と感じる。感じてしまう。特に、アジア圏における経済格差、円の強さは圧倒的で、笑えるほど薄給だった専門誌時代の給料でも、韓国やマレーシア、タイやシンガポールでは毎晩豪遊することができていた。

逆に、外国人にとっての日本は悪夢のような物価高の国で、成田にやってくる各国の客室乗務員にとって、東京行きはホテルから一歩も出られない恐ろしく退屈な乗務だと聞いたことがある。どちらかと言えば高給取りの部類に入る彼女たちにとっても、成田から東京までのタクシー代や、六本木のバーで支払う飲み代は、常軌を逸したレベルにあったのだろう。

いまは、違う。シンガポールでちょっと美味そうな寿司屋に入れば、ほとんどの日本人はメニューを見ただけでたじろいでしまうに違いない(少なくとも、わたしはたじろいだ)。銀座の一流店、とまではいかないものの、回転寿司とは比較にならないほどの値段が付けられている。そのくせ、味に関しては銀座の一流店には遠く及ばないのだから、本場の味と値段を知る人間からすると、コスパの悪さといったらない。

一方、外国人にとっての日本は世界屈指の買い物天国になった。一頃話題になった中国人の爆買いに限らず、GDPでは依然日本より遥か下に位置する国々の人たちも、様々な品物の値段の「高さ」ではなく「安さ」に驚く時代になった。いいか悪いかは別にして、いまの日本が、日本人が、バブル時代とはまるで違った立ち位置にあるのは事実である。

日本経済を司る官僚や政治家、経団連のお偉いさんからすると、だから、日本にとってのここ20年、30年は「失敗の時代」ということになるのかもしれない。だが、国敗れて山河あり。経済的には失敗だったかもしれないここ20年、30年は、たとえばスポーツにとっては、かつてないほど革命的で躍進を遂げた時代でもある。

円の強さにあかせて毎晩飲み歩いていたソウルで、クアラルンプールで、ドーハで、わたしは一度も「勝つ」日本を見たことがなかった。日本人であることが、世界で、アジアで勝てない理由としてあげられて誰も不審に思わない時代だった。

日本人だからW杯には出られないし、グランドスラムでは勝てないし、NBAやMLBなんて夢のまた夢だし、100メートルで9秒台なんて入れるわけがない。そう考えるのが普通であり、常識、いや、良識であるとされた時代だった。

だが、90年代半ばから日本のスポーツ界は変わり始めた。きっかけは、野茂英雄のメジャーリーグ挑戦と成功だったとわたしは思う。あれで、日本人の野球選手がアメリカで通用するわけがない、という思い込みが、一つ、崩れた。

世界への扉を開こうとするすべての試みが成功裏に終わったわけではない。イタリアに渡ったカズの挑戦は分厚い壁に跳ね返された形となった。だが、日本での成功が、必ずしも世界レベルでの報酬を約束するわけではなくなった経済的状況もあってか、世界に飛び出す日本人の数は右肩上がりで増えていく。

そんな中で、98年はやってきた。

バブル経済の発端が85年のプラザ合意にあるとするならば、わたしは、98年という年が日本のスポーツ界にとっての発火点ではないかと思っている。

この年は、長野五輪があった。サッカー日本代表が初めてW杯に出場した年だった。そして、松坂大輔が甲子園を沸かせた年でもあった。どれもこれもすべてエポックメイキングな出来事ではあったが、個人的には、松坂大輔の出現にはより一層の特別な意義を感じている。

歴史に「イフ」を持ち込むのが大好きなわたしは、つい想像してしまう。もし松坂大輔の出現がなかったら、どうなっていただろう。

90年(平成2年)の第72回大会で92万9000人の入場者総数新記録を作って以降、夏の甲子園はジワジワと観客の数を減らしていた。93年にはJリーグが発足し、子供たちの野球離れが叫ばれ始めていた。松坂が出場する前年度の大会では、入場者の総数は全盛期より20万人以上少ない60万人台にまで落ち込んでいた。

そんな中で、長野五輪があり、初めてのW杯の熱狂があったのである。高校野球はもちろんのこと、野球界すべてが、歴史上初めて他のスポーツが起こした波に足元を洗われ始めていた。

だが、そこに松坂大輔が現れた。

まさに「怪物」と呼ぶしかなかった高校3年生の活躍は、閑古鳥の鳴きつつあった甲子園に再び熱気を取り戻させた。観客総数は前年度より20万人以上増え、ノーヒットノーランを達成した決勝の視聴率は、NHK、民放を合わせて20パーセントを超えた。

卒業後、彼が西武ライオンズに進んだことによって、セ・リーグ一辺倒、巨人一辺倒だった在京のメディアは、かつてないほどの時間とスペースを西武と松坂のために振り分けるようになった。

松坂大輔が高校野球を救い、プロ野球を変えた。少なくとも、わたしはそう思っている。

彼の出現なく、高校野球がジリ貧の時代に突入していたら、マー君とハンカチ王子の対決はまるで違った雰囲気の中で行なわれていたかもしれない。彼がセ・リーグの球団に指名されていたら、パ・リーグの熱気がいまと同じ次元にまで高まっていたかどうか。

たった一人の選手によって動いてしまうほど、スポーツはヤワなものではない。アメリカには、「ベーブ・ルースは偉大だが、ベースボールほど偉大ではない」という言葉がある。その通りだ、と強く思うわたしだが、しかし、98年の松坂大輔と、その後の彼が日本中に与えた影響の大きさは、一個人がなしうる次元を遥かに越えていた、とも思う。

果たして、平成の怪物はどんな形で、どんな言葉を遺して現役に別れを告げるのか。

とりあえず、10月20日、水曜日の夜は予定を入れないつもりでいる。予定通りに日程が消化されるのであれば、この日が、メットライフ・ドームにおける西武のホーム最終戦になるからだ。

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