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baseball2021.11.10

運命の分岐点だった斎藤佑樹の大学進学から、アスリートの命運を紐解く

偏差値76。超の上にも超がつく進学校と言っていい。聞けばこの偏差値、全国でも11位に入るほどの数字だという。ハンカチ王子こと斎藤佑樹が卒業した早稲田実業は、そんな学校である。

もちろん、スポーツの名門でもあるこの学校には、一般の受験に加え、いわゆるスポーツ推薦の制度も導入されている。

21年度の募集要項によると、たとえば野球での推薦を希望する者には、“ア・都道府県大会で8位以内に入賞した正選手”であるか、“イ・全国・関東大会等に出場した正選手”、もしくは“上記ア・イを超えるような活動実績”が求められ、なおかつ、5段階評価の平均で3.5以上というハードルが設定される。

簡単に越えられるハードルではない。越えた成果を簡単に捨てられるハードルでもない。

15年前の夏、甲子園の決勝で投げ合った田中将大は高校卒業後すぐにプロ入りし、日本を代表する投手に成長した。そのことを以て、斎藤も大学へ進むべきではなかったのでは、という声がある。21年現在の2人を比較すれば、なるほど、そういう声があるのもわからないではない。

だが、もしわたしが彼の親だとしたら、まず間違いなく大学進学を進めただろうなという気もする。

先にも書いた通り、早稲田実業は野球界の名門校である。それを多いと思うか少ないと思うかはともかくとして、令和3年までに24人のプロ野球選手を輩出している。改めて触れるまでもないかもしれないが、王貞治さんもこの学校の出身である。

ただ、王さんを輩出して以降、早稲田実業は長い低迷期に突入した。高校野球ファンが再びこの学校の名前と存在を強く意識するようになったのは、80年(昭和55年)、端正な顔だちの1年生投手──荒木大輔が全国的なフィーバーを巻き起こした時だった。

その熱狂ぶりは、甲子園の興奮冷めやらぬ同じ年の9月13日、東京都江東区に住む若い夫婦が、4310グラムというジャンボサイズで生まれた我が子に「大輔」と名付けてしまうほどに凄まじかった。ちなみに、“本家”の荒木大輔と“あやかり”の大輔──松坂大輔は後に西武ライオンズで選手とコーチという関係で出会うことになる。

さて、荒木大輔の出現によって再び輝きを放ち始めた早稲田実業は、荒木の在学中、5季連続の甲子園出場を果たす。彼が3年生になった82年のドラフト会議では、巨人とヤクルトが1位に指名し、抽選の結果、荒木はヤクルトへ入団することになった。

プロ入り後もしばらくは人々の関心を惹きつけ続けた荒木だったが、残念ながら成績の方は期待通り、というわけにはいかなかった。10年間の通算成績は39勝49敗。最後はほとんど注目されることもなく、ひっそりとプロの世界に別れを告げた。

斎藤佑樹は、彼の両親は、当然、荒木大輔のことは知っていただろう。そして、「彼は大学に進んでおくべきだった」との声があったことも知っていただろう。わたしだったら、あるいはわたしが親だったら、絶対に躊躇する。プロか社会人、あるいは受験という道しかないのであれば、まだ踏ん切りもつくが、エスカレーターで大学へ進む道が用意されている以上、一つ段階を踏んだ上でのプロ入りを考えたくなる。

斎藤の身長は176センチだった。甲子園の決勝で投げ合った田中将大は188センチだった。身長は選手の将来を決定づける要素ではないし、斎藤より小柄でもプロで大活躍した投手は何人もいる。ただ、その中の一人と言っていい桑田真澄でさえ、ギリギリの段階までプロ入りか早稲田大学入りかで揺れていた。「体格的にも技術的にも大学を経てからプロ入りすべきだと考えていた」というのが、後の桑田の弁である。

果たして斎藤佑樹は高校卒業後すぐにプロ入りすべきだったのか。わたしにはわからないし、答が出る問だとも思えない。ただ、斎藤の決断は、彼の体格からしても、所属した早稲田実業の歴史から考えても、ごくごく真っ当だったのでは、と個人的には思う。

彼が甲子園を沸かせた06年の夏、スタンドには父親に連れられた大柄な少年がいた。前評判では劣勢をいわれたチームを牽引する斎藤の姿に感銘を受けた少年は、自分もいつかは同じユニフォームを来て同じ場所に立つことを誓う。

リトルリーグで世界一になり、アメリカのメディアから「ジャパニーズ・ベーブ・ルース」と呼ばれた清宮幸太郎は、早稲田実業を卒業後、すぐにプロの世界へと飛び込んだ。

わたしは、彼の父親と個人的に親しくさせてもらっているが、あのとき、清宮家に息子を大学へ進ませようという選択肢がまったくなかったことは断言できる。ご存じの通り、幸太郎の父・克幸氏は早稲田大学ラグビー部OBであり、母校に対する思いは相当に強い。にも関わらず、選択はプロ入り一択だった。

斎藤と違い、清宮幸太郎は体格にも恵まれている。大学に進学して身体を作って──という過程は必要ない、と考えたからなのかもしれない。ただ、斎藤佑樹が荒木大輔を知っていたように、清宮家の人々も、斎藤佑樹を知っている。



大学へ進むべきではなかった、と言われ始めていた斎藤佑樹を知っている。

そのことは、決断に何らかの影響を及ぼさなかっただろうか。

歴史はつながっている。スポーツも過去から無縁ではいられない。だから、年齢を重ねれば重ねるほど、スポーツの楽しみ方は増えていく

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