阪神タイガースと矢野監督の3つの誤算。そして、岡田新監督の1年目は、野球界全体の未来を左右するかもしれない。
今年も阪神は勝てなかった。というか、負けた。
もうすっかり慣れっこになってしまっているとはいえ、今年のは堪えた。昨年が勝ち星の数ではヤクルトを上回っていながらの2位で、かつてないほど「今年こそ」の思いが強かっただけに、いっそう、堪えた。
開幕前からわかっていた通り、シーズン終了とともに矢野監督はチームを去った。新監督は有力視されていた平田2軍監督ではなく、05年にチームを優勝に導いた岡田元監督に決まった。中央大学の森下翔太を始めとするドラフト入団組に加え、日本ハムからは2人の中堅選手が江越、斎藤とのトレードでやってきた。例年のごとく、また、何事もなかったかがごとく、時間とチームは歩みを進めている。
それにしても……なぜ今年も勝てなかったのだろう。
おそらく、ほとんどの阪神ファンが最大敗因として思い浮かべるのは、開幕戦の大逆転負けだろう。中盤までは圧勝ムード。オープン戦を最下位で終えていたヤクルトに対し、2位でフィニッシュした阪神が勢いの差、地力の差を見せつけていた。
それが、すべて暗転した。オセロのように、全部ひっくり返ってしまった。
優勝したヤクルトの高津監督は「開幕戦での大逆転勝利が大きかった」と振り返っていたが、この大逆転負けで、阪神の歯車は木っ端みじんになってしまった。
では、あれは防げない逆転負けだったのか。「いや、防げた」と矢野監督の采配に理由を見出す方も少なくないに違いない。それはそれで、一つの見方だとわたしも思う。
ただ、最後に同点弾、逆転弾を食らったケラーの起用が間違いだった、とは思わない。あの場面は、ケラーしかいなかった。シーズンを終えたいまならば真っ先に湯浅の顔が頭に浮かぶが、3月下旬の湯浅は、まだ期待の若手の域を出ていなかった。
さらにいうなら、この大逆転負けから始まった悪夢のような連敗の原因を、開幕前に矢野監督が「今季限り」と明言したことに求める人たちもいたが、これはいささか牽強付会というか、こじつけにすぎる気が個人的にはした。
矢野監督が目指していたのは、選手たちと上下ではなく、平行に近い関係で結ばれる監督像だった。「俺が決めた、だからやれ」ではなく、「お前ら何がやりたい?」と歩み寄る関係。生徒から慕われる部活の先生が今季限りで引退するとなれば、チームは思わぬ力を発揮することがある。賛否両論が沸き起こるのを承知の上で、それでも矢野監督が異例の発言に踏み切ったのには、そんな効果を期待する部分もあったのではないか、と推測している。
残念ながら、最後の最後、DeNAとのクライマックス・シリーズぐらいでしか、選手たちの「監督のために」的な空気は感じられなかった。なので、結果的にあまりプラスになったとは思えなかった矢野監督の決断だが、しかし、巷で言われているほどのマイナスだとも思わなかった。
少なくとも、スアレスが残留していれば開幕戦の悪夢はなかっただろうし、異例の決断があそこまで叩かれることもなかったのではないか。
だが、現実問題としてスアレスはパドレスに旅立ってしまったし、それはフロントの責任でも、矢野監督の責任でもない。わたしが今年のチームと矢野監督の責任……というか、裏目に出た判断を一番強く感じる点は他にある。
サンズの放出である。
もちろん、現場には現場にしかわからない理由はあったのだろう。だが、例年シーズン終盤に調子を落とすサンズは、逆に言えば、例年シーズン序盤は目ざましい働きをする選手でもあった。サンズを切って残したロハス・ジュニアは最後までパッとせず、慌ててつれてきたA・ロッドも低予算で獲得できた理由がわかる選手だった。シーズンを通じて矢野監督を悩ませ、ファンの苛立ちを掻き立てまくった貧打は、サンズを残していれば少しは違ったのでは……との思いが捨てきれない。
あとは、コロナである。
いまから思えば信じられない気をするが、ヤクルトに大逆転負けを喫した翌日、阪神の先発は小川だった。第3戦にいたってはルーキーの桐敷である。大切な開幕3連戦に、青柳もいなければ伊藤もいなかった。後に頭角を表すことになる西純や才木が、この時点では計算できる顔ぶれの中に入っていなかったことを思えば、あまりにも痛いコロナの影響だった。
シーズン序盤戦だけではない。およそ不可能かと思われた借金完済をなし遂げ、さあこれからという夏の盛りには近本や大山、中野といった主力が一気に戦列を離脱した。どこのチームにでも起こりうる事態だったとはいえ、今年の阪神の場合はタイミングとメンバーが最悪だった。
というわけで、個人的な総括をさせてもらうと、「今年の矢野監督が持っていなかった」ということに尽きる。身も蓋もないようだが、責任というよりは星。人生に何度かある何をやってもうまくいかないという状態が、よりによって契約最終年にやってきてしまった。
「いやいや、矢野監督でなければ勝てたはずだ」と思われる方も多いだろうが、誰が監督をやっていようがスアレスの穴は埋められなかったし、コロナによる戦線離脱も防げなかった、とわたしは思う。
正直なところ、矢野監督の功罪がより明らかになるのは、来年以降のような気もしている。岡田新監督の態勢になって、エラーの数が激減したら。佐藤が一気に殻を破るようなことになったら。チャンスに1本が出る打線になったら。矢野監督の至らなかった点は、誰の目にも明らかなものとなるし、岡田監督にはそれなりの腹案もあるようだ。
だが、心配な点もある。
賛否両論はあれど、矢野監督は従来の監督像とは違ったスタイルを目指した監督だった。阪神の選手は、4年間、そういうスタイルのもとで戦ってきた。シーズン前のいわゆる“予祝”も、ホームラン後のパフォーマンスも、選手たちから出たアイディアだったと聞く。
昭和の時代にはおよそ許されたことではない。
すでに岡田新監督は、ホームラン後のパフォーマンスや、佐藤が第一ボタンを外していることについて、はっきりと不快感を口にしている。選手たちの側からすると、いままで許されてきたことが禁止されることになる。
わたしだったら、新監督に強く昭和を感じてしまう。
前回岡田監督が阪神を率いた時代、元号は令和ではなく平成だった。星野監督の下でコーチを務めていたこともあって、選手たちにとっては身近な存在であり、また、現役時代の雄姿を知る選手も多かった。岡田監督の言葉を選手たちが受け入れる素地が、しっかりと出来上がっていた。
だが、いまや時代は令和であり、糸井が引退したいまの阪神には、ただの一人も、バックスクリーン3連発の時に生まれていた選手はいない。岡田監督の言葉だから、と無条件で受け入れる層は、確実に以前より少なくなっている。
勝ち星が重なっていけば問題はない。選手にとってのいい監督とは、まず自分を使ってくれる監督であり、勝たせてくれる監督。勝てば、疑心暗鬼も消える。
問題は、監督の計算通りに進まなかったとき。前監督との違いが、不満という形になって噴出することも考えられる。
岡田監督が卓越した野球理論、勝負勘の持ち主だというのは、彼を取材した記者からよく聞くことでもある。だが、どれほど立派な理論があろうとも、それが選手に伝わらなければ、響かなければ意味はない。
俺は岡田だ、監督だ、だから言うことを聞け──ではなかなかに通じにくい状況が、いまの阪神にはある。
そこを屈伏させるのか、選手に歩み寄る道を選ぶのか。
昭和か、令和か。
どちらの時代が劣り、どちらの時代が優れているわけではない。ただ、ヤクルトの高津監督やオリックスの中島監督を見ても、成功する監督のイメージが以前とは明らかに違ってきている。一方で、あれほどの実績のある巨人・原監督に対する風当たりの厳しさは、少なくとも、ファンの間では監督に求めるものが変わりつつあることも痛感させられる。
岡田体制の1年目は、だから、阪神のみならず、野球界全体の未来を占うことになるのでは、という気がいまはしている。
流れは加速するのか、それとも、揺り戻すのか。
個人的には、阪神を見る新たな楽しみが加わった気分である。
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