那須川天心はキックから転身した初のボクシング世界王者になれるのか。
同じ高校を卒業した有名人がいたと聞いただけで、自分のランクまであがったような気分になってしまった経験、ないだろうか。
わたしには、ある。高校時代、『ルビーの指輪』の大ヒットを飛ばした寺尾聰さんがそうだと知ってえらく誇らしかった記憶があるし、すでにかなりの阪神ファンになっていたにも関わらず、巨人V9戦士の柴田勲さんは特別な存在だった。
ただ、村上雅則という名前は知らなかった。わたしのクラスには野球部部員が3人だか4人ほどいたが、彼らの口からその名前が出ることもなかった。
ご存じの方もいるだろうが、村上雅則さんは、日本人初、アジア人初のメジャーリーガーである。
日本人としては初めてメジャーで勝利を上げたピッチャーは? 村上雅則。初めてセーブを上げたピッチャーは 村上雅則。初めてヒットを打ったバッターは? 村上雅則。
世が世なら、世間を熱狂させていても不思議ではない実績を残しながら、その名声は、母校にすら届いていなかった。いや、以前は届いていたのかもしれないが、わたしが高校に入学した昭和55年当時にはすっかり薄れてしまっていた。その時点で、彼はまだ現役を続けていたというのに!
世が世なら──。
村上さんがメジャーに旋風を巻き起こしていた時、日本は東京オリンピックの話題一色になっていたという。村上の活躍に着目するメディアはほとんどなく、情報を求めるファンもいなかった。サンフランシスコで沸き上がった熱は、太平洋を超えることなく消えた。
那須川天心を見ていると、村上さんの名前がダブる。
「いいっすよねえ、PRIDEの入場シーンとか。俺らもあんな感じで試合に入ってみたいですよ」
いまから15年ほど前、そういって羨望の念を隠そうともしなかったのは、長期政権を築きつつあったボクシング軽量級の名世界王者だった。大晦日といえば格闘技だった時代である。総合格闘技のスター、K-1のスターは、ボクシングの日本人世界王者をはるかに上回る知名度と、そして収入を手にしていた。
もし那須川天心があのころに出現していたら、立ち技格闘技界はより一層の人気を集めただろうし、彼の存在も、もっと特別視されていたに違いない。あのころのボクシング世界王者よりも、はるかに。
客観的に見て、総合格闘技、あるいはキックボクシング、空手など立ち技格闘技のすそ野は、昔も今も、はるかにボクシングよりは小さい。けれども、あの時代はメディアとファンが一緒になって日本発の格闘技イベントを盛り上げ、選手たちにすそ野の小ささ、パイの小ささを感じさせない舞台を作り上げていた。ボクシングの世界王者が嫉妬するほどの舞台が、日本にはあった。
ニワトリが先か、タマゴが先か。いずれにせよ、あのころのPRIDEやK-1という舞台は、次から次へと新しいスターを輩出し、それによって、新しい因縁や物語を紡いでいった。ファンは、目の前の1試合を楽しみながら、戦いが実現に至るまでの過程や選手の思いを知ることができた。
だが、令和2年の那須川天心には、物語がない。
いや、厳密に言えば、彼が持っている物語に釣り合う重み、内容のある物語を持った相手がいない。高田延彦がヒクソン・グレーシーと戦った時のような、あるいは魔娑斗が小比類巻貴之との間に築いていったライバル・ストーリーに相当するものが、つまりはマニア以外をも惹きつける魅力あるサイドストーリーが、那須川天心にはない。
ここにきて、彼はボクシングへの転向を明らかにした。この決断については賛否両論渦巻いているようだが、総合格闘技、立ち技格闘技がかつての勢いを保っていれば、まずなかった決断だろう。
だが、強さを求めて日常をすごし、己の強さを確認するためリングにあがる人種にとって、勝つことが見えている試合、モチベーションが刺激されない試合の連続が決して楽しいものでないことは容易に想像がつく。ボクシングのようにすそ野、パイの大きな世界であれば、メイウェザーのように万能感に浸ることも可能だろうが、残念ながら、いまの那須川天心の生きる世界はそうではない。
ボクシングに転向するという話が流れて以来、ネット上で目立つのは「ボクシングはそんなに甘いものではない」という意見だが、個人的には半分賛同して、半分疑問視、といったところである。
ちなみに、那須川とスパーリングをした元ボクシング世界王者の感想は「すごくいいものは持っている。ただ……」といったものだったという。「ただ……」のあとに続くのは、ネット上の意見と同じく、「そんなに甘いもではない」といったところか。キックという大きな武器を封印しても那須川が強さを保っていられるかは、いまのところ、まだ未知数だ。
ただ、キックの衝撃になれた人間がボクシングの世界で無類の打たれ強さを発揮するのは、ムエタイ出身の選手を見ても明らか。そして、ムエタイからボクシングに転向して世界王者になった選手は一人や二人ではない。個人的には、那須川がキックから転身した初のボクシング世界王者となることを大いに期待している。
22歳でボクシング転向なんて遅すぎる?
いえいえ、わたしが大好きだった輪島功一さんがプロボクサーとしてデビューしたのは、25歳の時でしたから。