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baseball2018.09.27

三浦将明(元中日ドラゴンズ) 野球のつながりが織りなす“人生劇場”「幸せな空間だった、時代のスターたちと投げ合えた高校時代」【インタビュー前編】

2018年夏、記念すべき第100回目を迎えた全国高校野球選手権大会。
通称“夏の甲子園“。毎年、数々のドラマを見せてくれる同大会だが、高校野球人気が絶頂を迎えていた1980年代前半。甲子園には毎年のようにスター投手が出現し、見ている者の胸を熱くした。

今回は、そんな時代を築いた一人の投手を紹介する。横浜商業のエースとして、春夏3度の甲子園出場に導いた、三浦将明氏だ。
彼は荒木大輔氏(北海道日本ハムファイターズ二軍監督)、水野雄仁氏(野球解説者)、桑田真澄氏(野球解説者)ら当時の時代を象徴する投手と甲子園で投げ合ったという過去を持つ。
インタビュー前編では、その貴重な高校時代のエピソードをたっぷりと語ってもらった。
 

「この人となら甲子園に行ける」横浜商業入学を決定づけた、荒井幸雄の存在
インタビューを受ける三浦将明

ーまず、野球を始めたきっかけを教えてください。

三浦:小学5年生の時、春休みになる前にいつも一緒に遊んでいた友達がみんな町内会の野球チームに入ったんです。
仲間はずれになるのが嫌だったので、僕もチームに入ったことが野球を始めるきっかけでした。

ーなるほど。ポジションはどこを守っていたのですか?

三浦:5年生の時は一塁手でしたね。ですが、投手だった6年生が大きな病気にかかってしまい、長期入院を余儀なくされたんです。
それで投手を誰にするかってなった時に、僕がチームの中で一番背が大きかったので、監督から「ピッチャーやってみろ」って。
それでやむなく投手を引き受けたわけなんですが、転向してからすぐに大会で優勝しちゃったんですよ(笑)。それからはもうずっと投手として投げ続けましたね。

ーいざやってみたら、かなり適性が高かったんですね(笑)。では、中学でもかなり活躍されたんじゃないですか?

三浦:いえ、神奈川ではそうもいきませんでした。
僕は川崎市の御幸中学校で、市の大会では上の方に行けるんですけど、県大会となるとすぐに負けてしまっていました。
やはり、強豪が揃う横浜のチームには歯が立ちませんでしたね。

ー大阪とともに神奈川は“野球戦国地”ですもんね。高校は横浜商業に進学されましたが、同校を選んだ決め手というのは?

三浦:僕が入学条件として掲げていた3つの項目「電車通学・男女共学・野球部が強い」を全てクリアしていたからです。

というのも、僕は電車に乗ることが大好きだったんです。横浜商業は僕の家から向かうと、まず京浜急行に乗り、途中で各駅停車に乗り換えるんですね。
電車好きからしたら「特急から各駅に乗り換えるこの感じ、これは電車通学として理想のカタチや」と思ったんです。それに学校に入ったら、チアガールが練習してたんですよ。「あ、これもえぇな」と(笑)。

そして最後に決め手となったのが、同校野球部の練習に参加させてもらった時に、投球練習を終えてパッとレフト側を見たんです。そこには、何となく見覚えのある選手がいたんですね。
それで僕の球を受けてくれた捕手の方に聞いてみると、「あぁ荒井幸雄(元巨人打撃コーチ)ね。あいつは1年だけどレギュラーだよ」って答えたんです。
その名前を聞いて思い出しました。「荒井って、中学で県大会に行った時にバカスカ打たれたすごい打者だ」って。

それに気がついた瞬間、「この人とだったら甲子園行けるかもしれない」と期待に胸が膨らみました。それによって入学条件を全て満たし、横浜商業に入学しようと決めたんです。
 

肩の痛みを乗り越えてー。憧れ・荒木大輔に投げ勝ったセンバツの舞台裏

インタビューを受ける三浦将明

ーそれは何だか運命的な出会いだったように思えますね。実際に入学して、三浦さんご自身はいかがでしたか?

三浦:高校1年時の1981年秋から、ほとんどの試合で投げさせてもらえるようになりましたね。同年の秋季神奈川県大会で優勝して、その後に行われた関東大会で準優勝。翌春のセンバツへの出場をほぼ確定させることができました。

ただ、そのほとんどの試合は僕が抑えたというより、打線が打って勝たせてくれたという感じだったんです。

ーというと?

三浦:県大会準決勝の法政二戦は6-5、決勝の日大高戦は8-7と、それぞれ大量失点してるんですけど、打線がそれ以上の点を取ってくれたんです。

関東大会も、初戦の大宮工戦は1点先制されたんですけど、荒井さんが終盤に逆転打を打ってくれて2-1で勝利。
次戦の鉾田一戦は1-0で完封勝ちできたんですけど、準決勝の東海大浦安戦は4-0で勝ってたのに油断して終盤に3失点。そのままギリギリ1点差で逃げ切りましたが、もっと楽に勝てた試合でした。

そして決勝の上尾戦は延長12回までもつれたんですけど、結局、満塁の場面で僕が押し出し四球を与えてしまってサヨナラ負け。僕の投球によってこの結果を招いてしまった瞬間、ようやく気づいたんです。「勝ち続けるためには、僕が抑えないとダメなんだ」って。

今までは「そこそこの投球をすれば大丈夫」と打線に頼りっきりだったので、これからは自分が抑えてチームを勝たせると、心に誓ったんです。

ーその敗戦をきっかけに、エースとしての自覚が芽生えたわけですね。それから2年時の1982年春のセンバツ準々決勝では、あの荒木大輔さん率いる早実と対戦して投げ勝っていますが、今振り返ってみてあの試合はいかがでした?

三浦:あの時の荒木さんは僕にとって憧れの投手だったので、その人に投げ勝った瞬間というのは、もう頭の中真っ白でしたよ(笑)。早実にいる荒木大輔じゃない。荒木大輔がいる早実だったんです。それぐらいすごかったんですから。

ただ、これは後から分かったことですが、あの試合、僕は肋骨を折っている状態で投げてしまっていたんです。
というのも、センバツの前から肩の痛みはあったんですが、万が一「肩が痛いから投げられません」なんて言った時には、先輩たちにボコボコにされるのは必至。
だったら荒木さんに投げ勝って、ファンの女の子に殺される方がまだマシだなと(笑)。そんな命がけの選択の中で勝ったので、思わずものすごいガッツポーズをしてしまいましたね(笑)。

ですが、やはり肩の状態は悪化してしまって…。準決勝はサヨナラ負けを喫したんですけど、肩の痛みでその時の悔しさをあまり覚えていないんです。それぐらい痛かった…。
大会を終えた後に病院に行って、この肩の痛みの原因が骨折だと、その時にようやく分かりましたよ。

ー本当によく最後まで投げられましたね…(笑)。その後、投球に影響はなかったのですか?

三浦:ありましたね。骨折が発覚した後は、しばらく投げるのを禁止されたのですが、投球を再開した3ヵ月後にはもう筋肉がげっそり落ちてしまっていたんです。
武器である真っ直ぐのスピードもかなり落ちてしまったので、勝つために変化球を多投するようになりましたよ。ただ、それが配球や投球術について考えるきっかけにはなりましたね。

池田の水野雄仁、PL学園の“KKコンビ”と対戦。それは、夢の空間だった

インタビューを受ける三浦将明

ー“怪我の功名”だった部分もあったかもしれないですね。高校3年時の1983年春のセンバツでは、初の決勝まで進んで水野雄仁さん率いる池田高校と対戦されました。投手だけでなく、「やまびこ打線」と呼ばれた強力打線も有名ですが、実際に対戦した時の印象はいかがでしたか?

三浦:最初は、失礼な言い方になってしまうんですけど、「徳島の田舎高校になんか負けるわけない」と思ってました(笑)。
それに対戦したこともなければ、打線を研究したこともなかったので、“やまびこ”の意味も分かりませんでしたから。

でも実際に試合になって、すぐにその意味が分かりました。プレイボールの時って「アァーーーー」っていうサイレンが鳴るじゃないですか。
鳴った瞬間に、初球を投じたら、先頭打者にライト前ヒットを打たれたんです。続けて2番打者にも、初球を三遊間にはじき返されました。
サイレンが鳴っている間にカキーン、カキーンと打たれて、鳴り終わったら無死1、2塁になってるんです。
「あぁ、だから“やまびこ”なのか」と(笑)。

ー試合開始早々に、その猛打を見せつけられたわけですね(笑)。水野さんの投球はどうでした?

三浦:それはもう、今までに見たことがないような真っ直ぐでした。145kmオーバーの球を放るので、「こんな速い球見たことねぇよ」って(笑)。
打席で構えると、こちらに近づくに連れて、本当にボールが大きくなっているように見えたのを今でも覚えています。

それに加えて、スライダーは右打者だと逃げるようにフッと消えるんです。まさに“消える魔球”。だから「これは打てるわけがない」って思いましたね。それぐらいすごい投手でした。

今考えても、あの時の池田の状態と自分たちの状態では、10回やっても10回とも負けます。それだけ実力の差がはっきりしていたんです。なので悔しいという感情は一切ありませんでした。
ただ、「このままじゃダメだ」と思えた部分はあったので、最後の夏の甲子園に向けて集中して練習できたのは、あの試合があったからだと思いますね。

ーしかし、その甲子園の準決勝で、池田はPL学園に負けてしまいましたよね。

三浦:そうなんです。はじめは本当に信じられませんでした…。結果を知ったのは、移動バスの中でした。
僕らも準決勝に進んで、試合は池田vs PLの後でしたから、移動バスの中でラジオを聴いていたんです。

「◯回終わって、PLが7-0でリード」って聴いた時は、「この人何言ってるんだ?間違ってるだろ」って思ったんです。でも何回聴いても、そのスコアは変わらない。
それが次第に現実だと理解して、「なんで水野が7点も取られるんだ!?」って目を丸くしました。しかもホームランを3本も打たれてると知ったら、さらに信じられませんでしたよ。

ーそうですよね。当時のPLにはエースの桑田真澄さんと4番の清原和博さんがいましたが、まだどちらも1年生でした。お2方の存在は知っていたのですか?

三浦:全く知りませんでした。なんせ桑田も清原もまだ一年坊ですから(笑)。ただ、今思えば試合をする前に、僕はすでに負けていたんです。

ーどういうことでしょう?

三浦:準決勝で勝った時に、ヒーローインタビューで「決勝戦でマークする選手は誰ですか?」って聞かれたんですね。それに対して「4番の清原くんです」って答えたんです。その時、水野自身は7点取られましたけど、清原は水野に4打数4三振でしたから。

それでアナウンサーに「清原くん4三振ですけど、それでもマークします?」って聞かれて、「僕らの試合の分まで三振しちゃったんじゃないですか?」って言っちゃったんですよ(笑)。自分では控えたつもりだったんですけど、もうこんなの負けコメントですよ。

その時は「あんな一年坊に打たれるわけがない」って僕の中では自信というか、変な確信みたいなものがあったので。結局、0-3で完封負けしましたけどね(笑)。

でも、そんな感じで一度も頂点を取ることができなかったわけですが、すごい人たちと巡り会えて、真剣勝負して、たった2校しか味わえない甲子園決勝の舞台を味わえた。
そういう意味では、幸せな空間だったなって、本当に思います。


後編: 「全ての出会いが、未来への道しるべになる」 につづく

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