三浦将明(元中日ドラゴンズ)野球のつながりが織りなす“人生劇場”「全ての出会いが、未来への道しるべになる」【インタビュー後編】
[前編:
「幸せな空間だった、時代のスターたちと投げ合えた高校時代」
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1980年代前半、横浜商業のエースとして春夏3度の甲子園に出場した三浦将明氏。
プロの世界では中日ドラゴンズで7年間プレーし、現在はスポーツデポの野球アドバイザーとして活躍している。
現職に就くまでには、野球によって紡がれたつながりが、次の進めべき道を示してくれたのだと、三浦氏は話す。
インタビュー後編となる今回は、そんな“野球のつながり”によって形づくられた彼の人生に迫った。
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ー三浦さんは高校卒業後に中日に入団されますが、もともと中日側から熱心に声をかけられていたのですか?
三浦:一番熱心だったのは、地元の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)ですね。
そこのスカウトの方は毎日来てくれていました。それに、僕のことを2位までに指名すると言ってくださっていたんです。
実際、僕は1位では呼ばれないなって思っていたんですよ。
他にもいい選手はたくさんいましたから。でも、2位までには指名されるなっていうのは、僕の中で確信していたんです。
ただ、もしドラフトにかからなかった場合は、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)か日本石油(現・新日本石油)に入社しようと思っていました。
日本石油には横浜商業時代の先輩である荒井幸雄(元巨人打撃コーチ)さんがいましたし、日本鋼管には同校のOBがたくさんいたので。
ーなるほど。実際、大洋からは指名されたのですか?
三浦:はい。3位でしたけどね(笑)。
だから2位までに大洋ばかりか、どこからも指名されなかったので、もうドラフトをボイコットしようとして記者会見場から逃げ出したんです。
それで近所の喫茶店で、やけ酒ならぬ“やけアイスコーヒー”してましたから(笑)。
ー“やけアイスコーヒー”…それは面白すぎます(笑)。
三浦:ですよね(笑)。ただ、しばらくすると野球部のマネジャーが飛んできて、「3位で指名されましたよ!」って報告しにきたんです。
でもふてくされていた僕は「そんなん知るか!」って(笑)。
まぁ監督が早く来いって言ってたらしいので、渋々行ったんですけどね。現状を聞いたら3位で大洋と中日と広島が競合していたらしく、それで交渉権を引き当てたのが中日だった、というわけです。
その後は中日側がすごい誠意を見せてくれたので、チームに入団することを決めましたね。
ちなみに同期には山本昌(野球解説者)もいます。
ーそうなんですね!実際にプロのマウンドに立ってみていかがでしたか?
三浦:同じプロの世界でも、一軍と二軍とでは実力差が全く違うことを痛感しました。
僕は二軍ではそれなりに通用してたんですね。抑えをやっていた時もあったので。
でも、一軍で先発のマウンドに上がったら、2イニングと持ちませんでした。
今なら、一軍で通用しなかった理由は分かります。僕には向上心が欠けていたんです。
なんせ二軍で抑えちゃってたから、「一軍でもいける!」と思って練習せずに遊んでしまっていましたからね。
「一軍で活躍するためには、練習しないとダメだな」。
そう気付いた時には、プロ5年目に突入していました。
もう、遅かったんです。
5年目にもなれば中堅扱いされるので、僕が二軍で結果を出したとしても、将来のある若手を優先して一軍に上げようとしますから。
チームとしては、それは当たり前のことですし。
今思えば、山本には“譲れない一線”というのがありました。
僕が遊びに誘っても「ごめん。俺もう明日あるから帰るわ」って。
その時は「なんだよ、付き合い悪いな」って思ってたんですけど、山本はプロ野球選手としての生活リズムをしっかり確立していたから、あそこまでの選手になったんだなと。
そう納得できますね。そこが活躍できなかった僕との大きな差だったんだって思います。
“野球”が今の仕事に導いてくれた。三浦将明が思う、どんなスキルより持つべき「人とのつながり」
ー若いうちにそこに気付くことができるかどうか、というのは重要だなと感じます。1990年に引退されましたが、その後はどうされたのでしょう?
三浦:当時の監督が星野仙一さんだったんですけど、佐川急便とつながりがあって、毎年球団から戦力外通告された選手を引き取る、という流れがあったんですね。
昔って、今みたいにトライアウトがないので、クビになったらすぐに第二の人生を探さないといけないですから。
なので僕も引退後は佐川急便さんの方でお世話になることにしたんです。
僕は同社の軟式野球部に所属しながら、仕事は事務業務に携わっていました。
働き始めてから9年と少し経った頃、当時の社長である湊川誠生さんが退職して、「湊エキスプレス」という運送会社を立ち上げたんです。
僕自身、湊川社長にはお世話になっていましたし、その信頼の厚さゆえに「この人なら運送業界で絶対に成功する」という確信を持っていました。
それは僕と同じ部署の人はみんな思っていたので、部署にいた全43人、その全員が一気に辞めて湊エキスプレスに転職したんです。
ーすごい話ですね(笑)。
三浦:普通、そんなの考えられませんよね(笑)。でも本当の話なんです。
僕は係長を任せてもらったんですけど、だいぶ忙しくて…。立ち上げたばかりだから、仕方がない部分はあったと思うんですけどね。
ただ、働いて9年が経った頃に腰を痛めてしまって…。
もう動けないくらい痛めてしまったものですから、運送業の仕事ができなくなってしまったんです。
なので、仕事を辞めさせていただくことにしました。
ずっとお世話になった湊川社長には申し訳なかったのですが、すでに体が限界を迎えていたので。
ーそうだったのですね。退職されてからはどうされたのですか?
三浦:ある時、引退してからずっと野球教室を開いている中日時代の先輩がいて、僕のことを知ったその方が「ちょっと来いよ」って誘ってくれたんです。
それで行ってみたら、そこに野球アドバイザーで、広島や日本ハムで活躍した鍋屋道夫さんがいたんですよ。
鍋屋さんとは現役時代に二軍で投げ合ったことがあったんですけど、鍋屋さんもそのことを覚えてくれていて。それで今、僕が失業中だということを話したんです。
そうしたら「お前、スポーツデポの小牧店に入れ」って言われて(笑)。
いきなり言われたので驚いたんですけど、ちょうど一人野球アドバイザーの枠が空くタイミングだったらしいんです。
それですぐに採用してくれて、今があるというわけです。すごいですよね。
これも野球のつながりあってこその出来事です。
どの世界においても、人とのつながりというのは、どんな高いスキルよりも大切なものなのかもしれませんね。
どうせやるなら「超」がつく選手になってほしい。成し得なかった夢を、次世代の子供たちへ
ー三浦さんには「野球」という強いつながりがあるからこそ、人生の岐路に立った時には必ず“助っ人”が現れるのかもしれませんね。では、野球用品について伺いたいのですが、現役時代はどこのメーカーを使用していたんですか?
三浦:プロに入って、最初はZETT(ゼット)、次がミズノ、その後に少しだけワールドペガサスを使って、最後はローリングですね。
ーいろいろなメーカーを使われているんですね。ご自身のこだわりはありますか?
三浦:まず、僕らの時代は、投手用のグラブには指カバーがまだついてなかったんですね。
それでおそらくプロ野球界で一番はじめに指カバーをつけたと思われるのが、チームメイトでもあった郭源治(元中日)なんです。その次が僕です。
僕がつけた理由というのは、僕には真っ直ぐとカーブを投げる際に、それぞれ指に癖があったんですね。真っ直ぐの時は左手の人差し指を出して、カーブの時はしまうという。
※ストレートを投げる際の構え
※カーブを投げる際の構え
三浦:それを相手チームに気づかれて、バカバカ打たれた時期があったんですよ。
僕自身、後ろで守っていた内野手に教えてもらって初めて気づきました(笑)。
なので、それから指カバーをつけて指を隠すようになりましたね。
実際、郭源治が指カバーを使用していなかったら真似してなかったと思います。
どうにか頑張って、指をグラブの中にしまい込んでいたんじゃないですかね(笑)。
ー郭源治さんには感謝ですね!(笑)。バットやスパイクはどうですか?
三浦:バットは球団支給のものを使っていましたし、スパイクもアシックス支給のものを履いていたので、正直こだわりも何もなかったですね。
スパイクに関しては、革底か金具取替式にするか、ぐらいは選べましたが。
でも、こだわりというか、道具を大切にするっていうことに関しては、落合博満さん(野球解説者)が中日に来てから選手たちの考え方が一気に変わりましたよ。
落合さんは野球用のジュラルミンケースにバットを入れていましたし、湿気を通さないように鹿革をバットに被せてましたから。
それで僕、「何でそこまでするんですか?」って聞いたんです。
そうしたら「だってバットでホームラン打ったらお金もらえるんだぞ」って。
「そういう選手になるためにこの世界入ってきたんだろ」って答えたんです。
実際に落合さんは日本人で初めて1億円プレーヤーになりましたから、「本当に道具は大切にしなきゃ」ってみんな思うわけですよ。
ー確かにそうですよね。それは、野球アドバイザーとしても子供たちに伝えている部分はあるのではないですか?
三浦:もちろんそうですね。「道具を大切にしない人は、いい場面で活躍できないぞ」って必ず言います。
今思えば、野球をやり続けることによって、たくさんの方からいろんな知識や言葉をいただけて、「俺もそうしないといけないな」って。自分を変えられた瞬間が多々ありました。
ープロの時もそうですが、高校時代も含めて全ての“野球のつながり”が三浦さんの人生にとって、ものすごく大きなものになっている気がします。
三浦:本当にその通りです。高校時代に戦った、荒木大輔さん、水野雄仁さん、桑田真澄、清原和博、山本昌、そしてプロに入ってからお世話になった監督、コーチ、選手の方々。その全ての出会いやつながりが、これまでの僕の人生を形づくっている。
今の仕事でも、そういった野球の知り合いから「スポーツデポにこの商品ある?」とか「この商品100個用意できる?」とか依頼されることがよくあるんです。
しかも、そんな無理難題な要求にも簡単に応えられるのが、このスポーツデポのすごさだと、僕はいつも感じています。
なので今は、このスポーツデポを通して今まで力を貸してくれた全ての方に、恩返しじゃないですけど、少しでも何か返すことができればなと、そう思っています。
ーありがとうございます。では最後に、これから野球を始めたいと考える方に向けてメッセージをお願いします。
三浦:もし、プロ野球選手を目指したいといった大きな夢があるならば、その目標だけじゃなく具体的な数値も掲げてください。
「ホームラン年間50本打ちたい」とか「200勝して名球会入りしたい」とか、何でもいいんです。
具体的に数字を掲げることで、やるべきことが、より明確になるはず。
なのでぜひ、その目標を紙に書いて部屋に貼ってください。
どうせやるなら一流の選手に、いや、「超」がつく選手になってほしいですから。
[前編: 「幸せな空間だった、時代のスターたちと投げ合えた高校時代」 はこちら]